2017年6月25日 週報

0
    「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



    「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。…」(コロサイ2:9−10)


    一般的なカウンセリングはG・フロイトの心理学(psychology/プスケー魂、心の論理)から始まり発展したと言えましょう(ある人々はフロイトの心理学と対立しますが、何らかの影響下にあります)。
    フロイトはヨーロッパのオーストリアで生活していたユダヤ系、オーストリア人で、家族はクリスチャンでした。父に対する反発などもあり、彼自身の思想としても、聖書的な道徳観の押しつけなどが、心の葛藤を一層強くするとして、神経症の要因と考えていました。
    又、19Cと言う時代の中で次第にヒューマニズムが台頭している時代であり、聖書を否定する人間観へと進む方向へと歩んだのです。ですからG・フロイト、A・アドラー、C・ロジャーズ、A・マズロー、A・バンデュラ、A・エリス、A.・ベックなどの心理学者たちによって「精神分析」「劣等コンプレックス」「クライエント中心療法」「人間主義心理学」「認知行動療法」などが考案され、心理療法によるカウンセリングが行われているのです。
    さらに、精神医学においても心理的なこと以上に脳内(肉体)のホルモンバランスの異常が心の病の直接の原因として、投薬を中心とする治療が大半で、精神科医によるカウンセリングはあまり行われていません。
    幼児期の環境、生育史でのトラウマ(心的外傷)、気質、生活環境、人生における重大な出来事などが切っ掛けとなるのですが、そこで、環境の改善なども考慮すると、回復すると期待されているのです。
    しかし、1970年代より欧米では心理学的カウンセリングが良い結果を出しているということから、投薬一辺倒ではなく、カウンセリングを、特にイギリスでは国費でカウンセラーを養成し、心の病の治療を担っています。
    しかし、一般の心理学と聖書の教えとの違いは、人間を罪あるものとするか、自立的なものとして見るかどうかです。人間の根源についっては、あいまいなままで、現実社会の中での自己認識、価値を高めようとするカウンセリングです。「幼児期のトラウマを気にしないように」「人生におけるいきがいや、目標を持ち、達成するように」「人との比較に意味を持ちすぎないように」「否定的でなく肯定的に考えるように」「すべてをありのままに受け入れて、良いところを伸ばすように頑張ろう」等々…。無神論的進化論による人生観では、究極的な疑問には教えはなく、真の納得と平安を持つことは出来ません。フロイト、ニーチェはその晩年において友を失い、孤独な人生を終えたのです。

    2017年6月18日 週報

    0
      「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



      父なる神

      「…しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(マタイ6:32)


      聖書の神は、万物の創造主なるお方であり、主権者なるお方でありますので、当然そのような偉大なお方を人の有限な理性で完全に理解することはできません。もし理解し、すべてを完全に説明できるなら人間の造り出した神にすぎないでしょう。
      「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」(ヨブ38:4)
      全能者は人間が理解するように、人の言葉や社会生活にたとえて、ご自身を説明されたのです。その代表的なこととして「神の父性」が示されているのです。人は、両親から生まれ、育てられ、養われているので、「父」とはどのような意味であるかを誰もが知っているのです。もちろん、ある人にとっては、父との関係の中で良い思い出がない方、例外的体験をされている方もおられるでしょうが、「父」と言う言葉には、普遍的共通の認識があります。
      1.「父を知ることは自分を知ることです。」私は誰でしょうか?私はどうして外面、内面においてこのような姿、かたち、性質を持っているのでしょうか?父を知ることによってこのような問いの答えを見つけるでしょう。
      2.「父は子どもたちのことを心配しているのです。」父は子どもの必要を知り、その必要を備えてくださるのです。「あなた方の父なる神は、あなたがお願いする前に、あなた方の必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:8)
      神は父として、その子どもとの特別な関係をもって下さり、幼い子供が父にお願いするように、神に祈り願う特権を与えてくださっているのです。
      3.父がいつも子供と共にいて、子どもの安全を見守っているように、神は神の子たちと共におられ、神の子たちの安全を見守ろうとしているのです。ストレスが今日の多くの人々の病気の大きな原因と言われていますが、どんな時でも、どんなところにいても、父によって見守られている子供には安全安心があります。このように神を父とする人々は強いストレスから守られ、安全安心の中で日々の生活を過ごすことができるのです。人は自分の「本当の父」を知ることができ、知ることは何と大切なことでしょうか。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」 (ヨハネ14:6)

      2017年6月11日 週報

      0
        「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



        「梅雨シーズンに備えて」

        「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(汽灰螢鵐硲隠亜В隠魁


        6月に入り、各地で梅雨入りが発表されています。毎年6月〜7月にかけて、長雨が続き、ジメジメしたお天気、高温多湿となる時期です。
        多くの方々が不快を感じ、様々な要因(カビ、におい、食欲不振、運動不足、水分調整の難しさ、睡眠不足、食中毒、等々)で、体の調子が悪くなることがあります。
        ですから、普段以上に、部屋の温度調整や、換気、掃除に気を付けたり、体調管理に注意を払わなければならないでしょう。 「梅雨」とは「うめ」の雨と書きます。中国の長江流域で、この時期、梅が実を結んだので、その時の雨を梅雨と表記したようですが、もともとは「黴雨(ばいう)」と呼んでいましたが、語感が悪いので「梅雨(ばいう)」と呼ばれるようになりました。 確かに、長雨でジメジメしたこの時期は、不快を覚え、憂鬱になりやすいかもしれませんが、別の見方もあります。もし、この時期に十分な雨が降らなければ、夏には、水不足となり、生活に影響が出てきます。何よりも、日本では、秋に美味しいお米が収穫されるために、この時期に雨を必要とするのです。
        確かに私たちの気分、体調は環境によって大きく左右されるものですが、最終的に決定するのは個人個人の受け止め方によるところも少なくありません。おかれている状況をどのように考え、受け止めるかと言うことです。すべてを否定的に自分にとってマイナスと受け止めるなら、気分は大いに不快となり、行動も消極的となることでしょう。しかし、逆にプラス面を見つめ、より意識をプラスに傾けるなら、気分も楽しく明るくなるでしょう。
        梅雨シーズンへの対策としての思考の持ち方、つらい中で孤独にならないように(誰もが梅雨を経験する)。
        ガマンできないと考えないように。
        脱出の道、すべてが益になると希望を失わないように(梅雨には終わりがある)。
        そして、どんなときにも神に信頼して祈り続けましょう。

        2017年6月4日 週報

        0
          「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



          「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」(汽灰螢鵐硲隠押В横亜


          教会はキリストの体であり、教会の成長が体の活動にたとえられて教えられています。人の体は約37兆個の細胞で造られており、数多くの器官に分かれ、それぞれが違った役割を果たし、体全体の健全な活動を維持して成長しているのです。 骨や関節、靭帯、筋肉などの運動器系、口、食堂、胃、腸、肝臓、膵臓などの消化器系、鼻、気管、肺などの呼吸器系、心臓、動脈、静脈、リンパ管などの循環器系、脳、脊髄、脳神経、脊髄神経などの神経器官系…。 正確に数えるのには難しい多くの多種多様な器官が体を構成し、互いにうまく助け合いながら働くことによって健康な体を保ち、元気な日々を過ごしているのです。
          大切な点が二つあります。一つはそれぞれの役割が違うということです。二つ目は、それぞれが互いに助け合っているということです。違いによって、誇ったり、卑下していないことです。それぞれの器官が競い合って、自分が一番偉い、大切であると自慢しようとしているのではありません。それぞれの器官の働きの違いが必要であり、同じである必要はありません。違いを認め合い、尊重し合って互いに助け合わなければ健康な体として成長しないのです。
          教会の成長は、救われる人々が増し加えられることであり、さらにその人々がキリストの体の一器官であるとの認識を持ち、それぞれが自分の役割を十分に果たし、その結果、助け合い、全体が成長するのです。
          ですから、教会の中で、一致した、しかもそれぞれが機能的に奉仕を捧げていくことが大切であります。コリントの教会では、違いによって自慢したり、卑下したり、利己的な考えが強く、一致よりも争いがしばしばでした。私たちに与えられた様々な賜物は、神様からゆだねられているものなのです。それを正しく管理し、キリストの教会が大いに成長するために用いていただこうではありませんか。多くいる教会でも一致がなければ弱くなり、僅かであっても一致があれば強くなるのです。

          2017年5月28日 週報

          0
            「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



            「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」(創世記1:26)


            心の元気を失っている時、大半の人々は、自分についての価値をも歪めてしまっているのです。それが不安や、自信喪失、望みのない状態となってしまうのです。場合によっては他者や自分に対して怒り、感情がとても不安な状態となります。人生において順風な日々を過ごしている時、ほとんどの人々は「自分の本当の価値は何だろう」と考え悩むことはありません。しかし、このことの正しい答えが分からないゆえに、問題になると、ひどく落ち込んだり、パニックになったり、うつ状態になるのです。自分の本当の価値、人生の意義が分かれば、眠れない日が続いたり、食欲が減退することがあっても、自分を見失うことはありません。薬の力によって、眠りを確保することや、一時的に脳を休ませる必要もあるでしょう。
            しかし、根本的な自己に対する歪んだ認識は薬では治らないのです。10年、20年、あるいはそれ以上投薬を続けても、自分自身を正しく見つめなおすことはできないでしょう。人は、誰も、一度築き上げた自己認識、自己価値を変えたくありません。
            一般的に、この自己価値は世間で自分がどのように評価されているか、自分の身に着けている外面的なこととのかかわりで築かれているのです。自分自身の内面では、かならずしも外面に反映された満足はありません。しばしば内面の不足を外面の華やかさで認めさせようとすることもあるでしょう。いわゆる「格好を付けようとする」生き方です。今日、日本だけでなく、世界中で進化論による人生観を持ち、生きているのが自然と言われるほど、一般化されていますが、この宗教は何を教えているのでしょうか。強い者のみが適者生存として生き残っていくのが自然であり、生存競争に勝ち残ることがつねに求められ、価値付けられるのです。弱い者、失敗したものが淘汰されるのは自然選択として正当化しようとする哲学、宗教なのです。しかも、その起源となれば偶然としか言いようがありません。
            聖書は、明確に人間の尊さは、神のかたちをもって造られ、生かされているからであると教えているのです。賜物、役割の違いがあってもすべての人は尊い存在なのです。

            2017年5月21日 週報

            0
              「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



              「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:4)


              創造主なる神によって万物は造られました。その中でも、神は人をご自分の「かたちに似せて」造られた(バーラー)のです。
              その時、人も自然界も非常に良かったのですが、人間の堕落によって人も世界も一変してしまいました。 その時以来、今日まで神(創造主)を除いて、人は自分たちの知恵と力によってユートピアを造ろうとしてきました。
              ノアの大洪水で、神の大審判が下されたのですが、洪水後の世界は、しばらくすると不敬虔な人々が増し加わり、人の力、可能性を象徴するバベルの塔を築き、創造主を除いて、人間が自分の思うままのユートピアを築こうとしたのです。
              神の御言葉の広がりによって、創造主に戻ろうとのリバイバルもしばしば起こりましたが、不信仰はやはり増大しています。敬虔な科学者たちもいますが、19Cに進化論や合理主義の台頭によって、神のことばではなく科学者の意見が正しいとする気運が広がり、力ある人々の意見が善悪を含め人々の生き方全体に大きく影響を与えているのです。
              ロバート・オッペンハイマーは20世紀の天才科学者として賞賛されたのですが、原爆投下による悲惨を知って「科学者は罪を知った」「我は死神なり」と心の内の苦しみを告白しました。その後の水爆投下反対も受け入れられず、FBIの監視下に置かれ62歳の生涯を終えるのです。科学技術は本来、人類の平和、幸せのために役立てるべきですが、人間の罪、貪欲によって人々のいのちを奪い、町々を破壊するために使われることもしばしばです。
              21Cの世界はますます、政治家、科学者、その他多くの人々を指導する人々が、神を恐れず、自分たちが神のようになることができると思うようになっていないでしょうか。
              家庭、学校、社会における道徳が失われ、人々は自分の好むようにルールを作り、好きなように生きています。それでいて、人々はますます自分を見失い、心を病み、自他の命を軽んじて刹那的に生きているのではありませんか。「あなた方は今がどのような時か知っているのですから、…眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。…」

              2017年5月14日 週報

              0
                「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



                「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴言17:22)


                心の病は脳内の神経伝達物質(セロトニン・ドーパミン等)の異常として、向精神薬の投与が中心となって治療されています。しかし、すぐに投薬で回復する人よりも、長期化したり、社会復帰も難しいとの状況が現実です。副作用の少ない新薬が開発され、回復が期待されていますが、再発も少なくありません。そのようなあ中で、アメリカ、イギリスにおいては1980年代より、認知行動療法によるカウンセリングが行われるようになり、良い結果が報告され、神経症(ノイローゼ)、不安症、パニック障害、適応障害、心身症などには、カウンセリングがより効果的として、日本でも2000年代から精神科医によって、行われるようになってきました。 肉体的、精神的、ストレスが心の病気の引き金となることがしばしばですが、根本的な原因はその人の心の拠り所にあるといってよいでしょう。日々の生活における様々な出来事、人間関係などの受け止め方を柔軟にできればストレスを大きくすることなく過ごせるのですが、一つの考え方に強くこだわると、とてもしんどくなるのです。しかし、心の病の根本原因は心の拠り所において、変わることのないもの、絶対的なものではない事柄に依存しているからなのです。 健康、外面的な美しさ、社会的地位や影響力、人の評判、物質的な豊かさなどは、すべてにおいて、変化するのです。結婚時の愛の誓いも変わるのです。このような変わるものを土台とする人生は、いつか崩れ、失われるのです。 結局の所「人とは何者ぞ?」との問に対して安心と満足、そして納得のいく答えを持たなければならないのです。この人生の根本的問いの答えは決して難しいことではありません。人間の真の親としての創造主を受け入れるか拒むかです。多くの人は、この答えを探すのは、難しいと言われます。それは、創造主を除いて、人間の起源を探そうとしているからなのです。「我思うゆえに我在り」と考えている人々にとって、「我」は永遠に謎なのです。 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)

                2017年5月7日 週報

                0
                  「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



                  「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:16)


                  キリストは子どもたちを祝福することを願われました。「神の国はこのような者たちのものです。」と子どもの素直な心が、神の国に入るのに必要であると教えようとされたのです 親は、子どもたちが親を信頼して、素直な心を持っているときに、神について正しく教える必要があることも教えようとされたのです(エペソ6:4)。
                  少子化の中で親が子どもたちの将来のために将来を思って熱心に教育しようとしている時代です。時間やお金を子どもたちのために使っているのですが、真の神を恐れることを教えなければ、多くの犠牲はどれほどに役立つことでしょうか。 聖書の神は万物の創造主であられることをしっかりと子どもたちに教えなければなりません。「はじめに神(エロヒーム)が天と地を創造した(バーラー)。」(創世記1:1)というのが聖書の最初の教理です。この「創造した。」はヘブル語で「バーラー」と言い、神の創造の時にのみ使われる言葉です。創造主なる神は、6日目に人を創造されたとき、「神はまた、彼らを祝福し/イバーレフ」(創世記1:28)と言われ、初めて「祝福」という言葉を使われました。ヘブル語において、「創造する/バーラー」と「祝福/バーラフ」とは、同じ語源であり、「創造する」とは「祝福する、豊かにする」という意味を持っているのです。 聖書の神は、人を初め、天地万物を創造されたのは祝福するためであった。創造主は6日日間で万物を創造され「非常によかった。/トヴ メオッド」と言われたのです。
                  祝福は全能者の力と権威と恵み深さによって、与えられ、もたらされたことを知ること、信じることはどんなに大切なことでしょうか。
                  神が人を初め、万物を創造されたとき、すべては「Very Good」でした。ところが、人間の堕落によって祝福が大きく変わり、問題が人間社会に自然界に入りこんできたのです。
                  大切なことは、祝福は神からであり、人からではないことを学んでおかなければなりません。神から離れることは祝福から離れるのです。
                  神を恐れ、神に信頼し、神に従うことを願う人々を神は祝福してくださるのです。進化論は創造主を除き、人の力で祝福を手に入れようとしているのですが、それは空しい徒労となることでしょう。

                  2017年4月30日 週報

                  0
                    「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



                    「…すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(汽謄皀藤押В院


                    2017年の世界は、いままでにない変化の年となっています。シリヤの内戦にロシアのプーチン大統領は政権側を支援していましたが、アメリカの新しい大統領トランプ氏の下で、反撃のミサイルが打ち撃ち込まれました。さらに、そのことから北朝鮮の金正恩への強い警告へと発展し、朝鮮半島でいつ戦争が起こるかもしれないという状況となっています。日本でも、第2次大戦後初めてミサイル攻撃が行われた時の避難情報が発信されるという、誰もが願わない事態となっているのです。日本やアメリカ、イギリス、そしてヨーロッパなどの多くの国々は民主主義の手続きで、指導者が選ばれ、指導者、政府の決定を国民の多数が支援しているのですが、現実には、大統領や高い地位の人々の意志によって戦争となったり、話し合いで解決しようとするのです。ですから、指導者たちがどのような信念を持っているか、世界観、人生観を持つかによって力で決めるのか、話し合いで決めるのか、どこまで忍耐するのかが、大きく変わるのです。いずれにしても、1941年に始まった大戦とは違った犠牲と町々の破壊が戦争によって生じるのです。そして、その責任は指導者たちだけではなく、国民一人ひとりにもあるのです。
                    教会の責任は何でしょうか。教会は立てられている権威に従わなければなりません。(ローマ13:1−3、1ペテロ2:13−14)。同時に、教会と国家とは異なった役割があるのです。教会は王たちが神からの権威を正しく行使するように注視し、彼らのためにとりなしの祈りをしなければなりません。王たちは、神の代わりに、ゆだねられた国民を正しく治め、平和や個人の良心を保障する責任があるのです。教会は神の子たちが立てられた権威に従い、平和な社会の市民として義務を果たすように、また、王たちが正しく政治を司り、人々の正義と信教の自由を守るようにと祈るのです。
                    争いの根本原因は何でしょうか?それは人間の持つ罪にあるのです(ヤコブ4:1)。様々な切っ掛けと理由づけが行われますが、罪のゆえに人間社会は争うようになり、力の強いものが治めるようになってしまったのです。ですから、罪の赦しと罪の力からの解放、すなわち、福音の力によって生まれ変わり、成長することは、平和への欠かすことができない運動です。究極的平和の実現は神、キリストによる神の国の実現にありますが、教会の使命は人々、指導者へのとりなしの祈りと福音宣教にあるのです。

                    2017年4月23日 週報

                    0
                      「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31



                      「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」 (マタイ24:6)


                      2017年1月、アメリカの大統領が変わりました。数年前からのイラク・シリヤの内戦から、多くの難民が発生し、並行して、世界各地でテロが起こり、ますます不安が広がりつつある中で、アメリカはシリヤの軍事基地を攻撃し、世界中が緊張しました。 さらに、北朝鮮の核開発、周辺国への挑発により、アメリカは空母を中心とする艦隊を日本海へと移動させ、さらに戦争勃発の不安がより現実味を帯びてきました。
                      第二次大戦の経験より、人類は二度と同じような戦争を起こさないと決心をして国連を中心にして世界中の様々な問題を話し合いで解決しようと努力してきましたが、21Cを迎えて、グローバル化と並行して新たな世界戦争の危機が各地で起こっています。
                      イエス様は世界の主権者としてこの世界がどのような方向に進んでいくかをご存知であって、聖書を通して神の子たちに大切な指針を示してくださいました。
                      1)「気を付けて」社会の動向に対して無関心であってはいけません。“目を覚ましていなさい”“用心していなさい”と語られています。
                      2)「慌てないようにしなさい。」と冷静さを失って、感情だけに支配されると誤った判断と行動をとり、かえって問題を大きくします。過剰な不安や応戦によって大問題となるのです。
                      3)「必ず起こる」誰もが戦いではなく平和を望むのですが、戦争の可能性を不思議に思ってはなりません。人間の罪が完全に解決していない社会では、常に争いが起こるのです。核開発をして、平和が本当に実現するでしょうか?誰が考えても平和の方向には向いていません。力による支配によって恒久的平和は絶対に実現しません。
                      4)「終わりが来たのではない。」その時の前兆を通して、悟る者とならなければなりません。しかし、時は神のみが知る権利です。キリスト者に与えられている平和運動の使命は天に引き上げられる時が来るまで、慌てずに福音を宣教することに励むことであり、人々の心を平和にすることがキリスト者の使命です。国の指導者がどのような世界観を持つかによって、戦争か平和かが決まることもしばしばです。各国のリーダーたちのために祈らなければなりません。

                      | 1/21PAGES | >>

                      calendar

                      S M T W T F S
                          123
                      45678910
                      11121314151617
                      18192021222324
                      252627282930 
                      << June 2017 >>

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      links

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM