2019年8月11日 週報

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    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



    「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」 (イザヤ45:22)

    74年前の8月6日と9日に人類史上初めての原爆が投下され、広島と長崎で、23万人以上のいのちが奪われました。さらに50万人近い人々が被爆の苦しみの中で生涯を過ごされているのです。毎年、この時期になると広島、長崎から核廃絶のメッセージが発信されていますが、依然として多くの課題が残されています。
    すでに衆知のことでありましょうが、原爆開発にかかわった科学者の大半がユダヤ系の人々でありました。原爆開発の物理学研究は初めヒットラーによってドイツで始まりましたが、ユダヤ人迫害で多くの科学者はイギリスに亡命して、チャーチルの下で研究が進んでいました。アインシュタインはアメリカに直接亡命しましたが…。チャーチルは厳しいドイツとの戦争で十分な資金もなく、直接アメリカのルーズベルトの自宅を訪れ、科学者と研修資料を託すので、アメリカで、この研究開発を行うようにと強く求めユダヤ人科学者もドイツへの投下を考え協力したと言われています。
    1941年10月から始まり、12月に太平洋戦争がはじまりました。1941年11月、マンハッタン計画はユダ系アメリカ人ロバート・オッペンハイマーを委員長として、ニューメキシコ州、ロスアラモス研究所で始まり、1945年7月に初めて実験に成功し、翌月広島、長崎に投下されました。1939年にドイツから亡命してきたユダヤ人科学者レオ・シラードがナチスの下で原爆が開発されていることを恐れ、アインシュタインを介して、ルーズベルトに書簡を送り、米国での開発を強く促しました。この秘密裏に行われていた研究は、スターリンと通じる科学者によって、すべての進捗状況がソ連に伝わっており、日本に投下されること、日本敗北が近いことを知っていたと言われており、ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して、8月8日に満州進攻をはじめました。
    ここで皆様に知っていただきたいことは、なぜこのような歴史的重大事に、ユダヤ人が深くかかわっているのかということです。彼らは最大の戦争の被害者であり、時として、原因ともなっているのです。今日でも、軍産複合体支配にユダヤ人が関わっていると言われています。
    聖書の最大のメッセージは、万物の創造主、唯一の神が存在しておられ、人間は誰であってもこの神を神として崇拝することであり、まことのいのちと道、平和は、この神を神として認め、受け入れることによるとのメッセージです。ユダヤ人の存在はあなたにとって良くても悪くても神の存在を気づかせるためのしるしであるのです。

    2019年7月28日 週報

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      「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



      「幸いな人(3)主に拠り頼む人〈2〉」

      「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」 (詩篇2:12)

      1960年―1970年に活躍したユダヤ系アメリカ人心理学者アブラハム・マズローは「人間性心理学」というカウンセリングを確立したことで知られています。フロイトが悩んでいる多くの人々を観察、治療しながら「精神分析」という学説を確立したのとは対照的に、彼は元気な人と思われる人々を観察して、「欲求5段階説」を唱えました。
      人間は欲求を持ち、その欲求が実現するとより健康的、生産的に生きるようになり、幸いになると考えました。
      第一段階は「生理的欲求」食べる、飲む、睡眠、第二は「安全の欲求」健康、仕事、安心できる生活環境、第三は「所属と愛の欲求」家族、友人、自分の所属、アイデンティティ、第四は「承認の欲求」人から認められたい、尊敬される表彰され価値ある存在としての認識、そして、最後は「自己実現」自己中心的と言うのではなく、自分を最大限生かす生き方、それによって自分と周囲にも幸いをもたらすとの説です。
      確かに、人は欲する者として存在し、成長と正しい管理、創造を生み出す者として期待されていました。
      しかし、現実の社会はマズローが主張するような自己実現へ、彼はさらに超自己実現という至高の段階を説いたのですが、ここに達する人は「どれ程いるか?」と言うことであり、多くの人々が上の階層に到達できず、あるいは、到達したと思われても、そこでは期待した程の満足、平安が体験できず、心は満たされないということではないでしょうか。21Cの今日、物質社会は、60年代、70年代とは比較にならない発展を遂げました。しかし、益々、人々の心は、自己主張を求めてやまず、競争、争いはエスカレーションし、強い者が弱い者を支配するという傾向が進むばかりです。100万人以上の日本人が、何らかの心の病で苦しんでいるのです。たとえ多くの物、富を手にしていても心は平静ではありません。神のことばは、永遠の愛で私たちを愛しておられ、このお方こそが人間の真の父であり、人が拠り所とすべきお方として招いておられるのです。主なる神を心の拠り所、避けどころとする人々は、幸いな人々です。
      「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

      2019年 7月21日 週報

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        「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



        「主に信頼して善を行なえ。…。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。…」(詩篇37:3,8)

        人は「心の拠り所」がなく、あるいは失ってしまうと、心理的下降線を辿っていくと言われています。
        その出発点は「拠り所」に対する「疑い」から始まります。今、自分が信頼しているものは十分ではない…。何か他のものが必要です。自分の生活に「満足」があれば疑いが生じたり、不満が拡散することはないでしょう。「私はもっと〜しているはずなのに…。」と満たされない思いが疑いと共に強くなってくるのです。
        その「不満足感」は、「不安(必要なものを手にできなかったらどうしよう。)」や「怒り(必要としているのに、それが手に入らないなんてもう嫌だ。)」を生じさせ、最後には「絶望(希望が持てない感情)」的になってしまうのです。
        その時代の社会に公正や公義が失われていると思われると、それは個人の道徳意識も弱っていることも同時に存在していると思われるので、人は自分や他者に対して破壊的になってしまうのです。
        21Cの世界がテロでスタート(2001.11.3)しましたが、益々世界中で「疑い」「不満」「不安」「怒り」の感情が渦巻いており、考えられないような事件が繰り返されています。
        あちらこちらで、自然災害が増大し、戦争のうわさが起こっており、人々は益々暴力的になってきているのではありませんか。 万物の創造主を認めず信頼しない人々は、自分の思いを遂げることで満足と幸いを手にしようとしますが、人の考える欲求は満足を知らず限りがありません。

        聖書は「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」と語っているのです。キリスト者の「拠り所」はどこにあるのでしょう。この社会の公正、公義でしょうか…。私たちの「拠り所」は永遠に変わることのないお方、万物の創造主、主権者なるお方にあるのです。「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせて下さる。…。」詩篇37:34

        2019年7月14日 週報

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          「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



          「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇8:5)

          人の尊厳が聖書では、明確に宣言され、教えられています。人は全知、全能の創造主なる神の“かたち”に似せて造られ、創造主にとっての最高の作品であり、誉れとされたのです。
          人は他の動植物にない自由意志を与えられたものとして、自ら進んで創造主の意志を受け入れ、従うことによって、神の栄光、誉れを現わし、人の本来の役割を果たす人生を過ごし、そこに満足、平安、喜びを手にする者となり得たのです。
          しかし、今日の世界は神の愛によって、治められる平和な社会とはならず、人の欲と欲とがぶつかり合って、争いの絶えない世界となっています。力の強い者が多くを持ち支配するでしょうが、それは一時的で新しい別の力強い者によって奪われ、別の人が支配するということの繰り返しではないでしょうか。
          そのような生き方は、真に「幸いな人」となったとはいえません。しかも、人はどんなに多くの持ち物を手にすることができても、物質的豊かさで満足することはできません。
          人の本質が神のかたちを持って造られているからです。動物は、人間が持つ魂や霊的命がありません。しかし人は、神のかたち、即ち霊的な命を持つ者として存在しているために、いくら肉の欲求、生理的欲求が満たされても満足することはありません。
          ソロモン王は巨万の富を手にしました。自分の肉の欲するものは、何でも手にすることが出来ましたが「空の空」という言葉を残していることは、誰もが知るところです。
          キリストも言われました。「人はパンだけで生きるのではなく…。」(マタイ4:4)創造主を否定し、無視して生きることによって、真の幸いな人となることはできません。
          創造主は人に栄光と誉れの冠を与えて下さったのです。幸いな人となる鍵は、まさに、神と共に生きるところにあり、人の欲に生きるのではなく、神の欲することを求めて生きるところにあるのです。

          2019年6月23日 週報

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            「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



            「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)

            教会(エクレーシィア)は信じた人々の集まりであり、会堂(建物)とは明確に区別しておかなければなりません。一般的に人々は立派な建物を見て、あの教会はすばらしいと評価されるでしょうが、正しくは会堂が立派であることとすばらしい教会とが一致するとは言えません。
            教会は信者たちの集まりであり、一人一人に賜物があり、それぞれの賜物が生かされることが教会の成長のために大切なことです。それぞれが与えられている賜物をいかに発揮するかは、その個人の成長と教会全体の成長にとって大切なことです。しかし、いくら賜物が生かされたとしてもバラバラになってしまうならば、教会全体のためには良いとは言えないこととなります。 ですから、教会が一人一人の賜物を生かしながら成長するためには、信徒全員が共通した信念を共有して、一致を保ちながら、それぞれが生かされることが大切と言えましょう。
            私たちの教会は、ローマ12:1−3の御言葉に従って三つの信念を共有することで一致し成長いたしましょう。

            第一「神のために生きる(ローマ12:1)」救われたすべてのキリスト者に期待されている教えは、この地上の人生を自分の欲望実現ではなく、神の御意志を第一として生きようとする信念です。この生き方は人が初めに造られた目的にかなう生き方です。神を第一として、神を愛する生き方です。別の言葉では神に献身する生き方です。このことは、信仰者の生きる方向を決定づけるのです。

            第二に「互いに成長する(ローマ12:2)」正しい方向が決まっても、日々御言葉に基づく考え方を求め続けなければ成長へと前進しないでしょう。今までの古い価値観から、聖書的価値観へと変わることを求め続けましょう。

            第三に「他の人々に仕える(ローマ12:3)」一人一人は体の器官にたとえられ、大切な役割があると教えられています。しかし、自分の役割を果たすことによって他の人々の働きを助け、よりよいものとするのです。自分の役割を果たすことによる満足は同じように他の人々を助け、仕えることとなるのです。それによって体全体に大きなプラスをもたらすのです。

            2019年6月9日 週報

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              人はうわべを見るが、主は心を見る。汽汽爛┘襭隠

               

               

              川崎市で起こった児童殺傷事件と関連するのでしょうか…。一週間もたたない間に、東京で官僚の最高の地位を経験された元事務次官が、長男を刺殺するという痛ましい事件が起こりました。中学生のころからいじめに会い、引きこもりが始まっていたとのことです。

              どの家庭に起こっても痛ましいことですが、社会的に最高に恵まれていると思われている家庭でのあまりにも痛ましいことですので、多くの方々が驚かれたことでしょう…。

              どのような家庭でも一つの歯車が狂うと連鎖して大きな問題が生じるように、人は自分の生きる価値を見失うとどのような環境であっても、人としての自分らしい生き方ができなくなってしまうのです。

              人は個人的な意思で何かを信じて生きているのであり、個人の信仰、信念を、たとえ親であっても支配することはできません。ですから人は何をどのように信じて生きるかは自己責任であることを共有していることが大前提ですが、どのように人としての価値を教えられるかはとても大切なことと言えましょう。

              心病む過程の中で、家庭環境、教育は大きな影響を与えています特に0歳から12歳までの幼少期はとても大切な時期と言われています。なぜなら、この時期に個人の基本的人格、そして、両親との関係が築かれるからです。青年期に問題が生じてから対応しようとするのが大半ですが、遅すぎるのが実態となっています。の教育者、心理学者も“自分の存在を否定する”ような教育をしてはいけないし、“存在価値”を教えてあげなければならないと主張されているのですが、どのような信念によって“人の価値”を教え、納得させるかがとても大切なことです。

              この世の価値観、進化論的人間観で教えられている結果として、人は、自分の価値を見失っているのではないでしょうか。ダーウインの進化説は、自然選択、即ち、「生存闘争」「適者生存」「自然淘汰」を信念としています。負けたものは、即ち、社会に適応しない人々は、淘汰されるのは「必然」とする教育を受けてきました。この信念からは、すべてのいのちの尊厳は、生み出されないのです。

              ヒットラーはこの信念でユダヤ人を絶滅させようとしました。




              2019年6月2日 週報

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                …そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。ルカ

                 

                 

                18年前の6月8日に付属池田小学校で児童殺傷事件が起こり、その時から子供たちの安全についての様々な対策が論じられ、具体的な安全策も行われてきましたが、全く同じとは言えませんが、先週川崎市で痛ましい事件が発生しました。

                その時池田の犯人は捕らえられ死刑に処刑されたのですが、事件を犯す背景について様々な調査が成され、その一部が発表されています。犯人はすでに統合失調症で入退院の経歴がある人物でしたが、また、病気が直接の原因と言うのではなく孤独感、疎外感、そして絶望感が強くあったと言われています。その一つの切っ掛けは「両親によって自分は望まれていなかった!」との思い込みが強かったということのようです。

                今回の犯行者も今のところ孤独状態であったと報じられています。

                周囲に人々がいつも孤独な精神状態になってしまうことはしばしばです。世間並みの生き方がなにかのことで出来なくなると、負のスパイラルが働きどんどん人は孤独、疎外、そして絶望へと落ち込み、マイナス感情に満たされてしまうのです。

                精神的立ち直りのためには、世間とは違う別の価値観があることを知っていただきたいのです。聖書の神は、どのような人も、神形を持った人間、生かされている人々は、生きる意義と価値があると教えられているのです。

                人もも同じ祖先ではなく、人は神のかたちを持った尊い存在で、一人一人には違いがあるが、一人一人には、神から託された使命があると教えられているのです。

                世の基準は多くの人々が良しとする基準ですが、決して絶対的基準ではありません。変わりやすい基準、価値観で、自分や他人を決定づけることによって、孤独感や、疎外感が広がってしまうのです。

                神に愛されていることに気付いたサリバン女史は、重いうつ病を克服し、ヘレン・ケラーを育てることが自分に与えられた使命であると確信し、生きる勇気と力を神に求めたのです。

                 

                 


                2019年5月26日 週報

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                  なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。…  使徒1731

                   

                   

                  パウロは神々で満ちていたアテネで宣教したとき、真の神は、万物の創造主であられ、人間によって造られ祭られる神々ではないことを強く語ると共に、アテネの人々に真の神を神として認め礼拝するようにと訴えました。

                  聖書の中心となるメッセージは神が人類(ユダヤ人を初めすべての人々を含む)のメシヤ(救い主)としてイエス・キリストをこの世界に人として遣わされ、そのお方が十字架で身代わりとして死んでくださったので、神の義なる裁きからの赦しが備えられているということです。

                  その明確な根拠、そして永遠のいのちの希望として、イエス・キリストは三日目に復活されました。

                  神は恵み深くあわれみ豊なお方であられます。すべての人々にただ信じるという一人一人の心の決断によって救いが瞬間的に与えられるのです。私の罪は重すぎてされない…。そのようなことは決してありません。

                  十字架に架けられた一人の極罪人も、死の直前にイエスを告白して、パラダイスに入る権利を手にすることが出来ました。即ち、彼は永遠の裁きからされ、救われたということですさらに、今日、2000年の時間の経過の中で、救われる機会は残されているんです。

                  しかし、ノアの大洪水が起こったように、神の義をもってこの世界を裁かれる日は必ず訪れるのです。人は生かされている間に悔い改めて、イエス・キリストを通して真の神を神として認め、信じなければなりません。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」と聖書は断言しています。神の愛は常に神の義と共に存在しており、神の愛を人間の都合で理解しようとしてはいけないのです。

                  物質的豊かさも、自由も平和の実現をもたらすことはできませんでした。酒、ドラッグ、性道徳の乱れ、人々の欲望は尽きることがありません。

                  キリストの再臨への注視がノアの大洪水前の人々の様子をもって警告されている

                  のではないでしょうか。

                   


                  2019年5月18日 週報

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                    サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。  汽汽爛┘襭

                     

                    4月の年度始まりで、多くの方々が新しい環境の中で生活を始めておられ、1か月が過ぎ、5月を迎えておられます。新しい環境で誰もが緊張され、早く新しい環境での生活リズムに慣れようとされているのですが、とても疲れを覚え、睡眠も十分でないと体と心とが弱ってしまうのです。

                    特に、5月の連休が切っ掛けで、休み後に朝起きれなくなり、学校や仕事を休み、そのままズルズルと家にこもるという状況が続く心の病気を通称として「五月病」と呼んでいます。

                    ストレスからくる心と体の疲れ、期待していたことと実際のズレからくる疑い、将来への漠然とした不安…。このまま続けてうまくやっていけるだろうか…。誰かが新しい環境である程度のストレスをおぼえるのですが、そのような時、健全な考え方ができない、問題解決を後回しにしようとするくせなどによって、ドンドン気持ちが重く、しんどくなるのです。

                    サウル王は最高の地位にいなら、健全な思考習慣を身に着けることなく、自分の欲求をつねに第一としていたので、部下のダビデが勝利し、手柄を立てたことに素直に喜び、感謝できず、疑い、不満、そして怒り支配されていました。サタンはそのような心の人をさらに誘惑し、手柄を立てたダビデに嫉妬し、ダビデをやりで殺そうとしました。

                    他方、ダビデは君主であるサウル王にえる身で、不条理(身に覚えのない苦しみ、扱いを受けること)な苦しみパワーハラスメントを受けたのですが、心を弱らすことなく、自分に与えられた人生の目的を達成すべく前進し続けました。ダビデの手には琴があり、美しい音楽で王を慰めようとしたのです。

                    ダビデはサウル王の前から離れるという手段を一時的に選択しましたが、彼がどのような環境の中でも心を強く持ち、前進で来たのは、常に健全な思考習慣「主はダビデと共におられる」を持ち、その思いをより強くするように習慣付け続けたからです。

                     


                    2019年4月14日 週報

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                      「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                      「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17:31)

                      未来学者の一人、アルビン・トフラー(米国籍、ユダヤ人)は人類史における三つの革命に言及しています。第一は農業革命(狩猟採集社会から農耕社会)第二は産業革命(大量生産、大量消費)、そして第三番目は脱産業社会(情報化社会、IT革命)です。
                      確かに人々の生活スタイルは、常に変化してきました。一つの方向からはそれを進歩前進、改善と言えるかもしれません。無神論進化論者はこのような革命による進歩を進化に置き換えて「進化」によって人類は理想世界を目指し実現できると考えてきました。様々なことで息詰まると戦争が起こり、事態を力で変え、解決を図ってきたのではないでしょうか。
                      最近の様々の犯罪は、情報手段を使っての盗み、詐欺、いじめ、性的不品行等々が行われておりますが、形は変わっても人の貪欲さは今も昔も変わっていません。
                      教育が普及して、経済的に豊かになっても争い、盗みはなくなりません。タイから日本の高齢者たちに電話を掛け詐欺をしていた人々が逮捕されました。
                      福音(良い知らせ)の第一歩は、キリストの身代わりの死(贖罪)であります。人が罪ある者であり、誰一人自分の力で、努力で罪に打ち勝つことが出来ないことは明らかとなりました。
                      聖書の神は、罪を必ず裁かれる正義のお方であられます。十字架は、すでにキリストが身代わりとなって罪の罰の代価を払ってくださったことを示すのです。さらに、復活によって十分な確かな代価が支払われたことの保証となりました。十字架の苦しみのような殉教者は数多く登場しましたが、キリスト以外、誰一人、復活されたお方はおられません。福音はキリストの復活の歴史的事実の上に成り立っている教えであり、世界に広がった理由がそこにあるのです。復活は神の裁きと復活の希望を確かなものとしたのです。

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