2018年8月5日 週報

0
    「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



    「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」 (創世記2:7)


    「人とは、何者なのでしょうか?」と言う命題はつねに人が問うてきたものであります。フランスの画家ゴーギャンは「われわれはどこから来たのか?われわれは何者なのか?われわれはどこへ行くのか?」と題する絵を描いた後、自殺を試みました。彼は「人間とは何者であるか」の本質的問いを絵で表現しましたが、彼自身納得のいく答えを見いだせなかったようです。
    進化論の人間観は明らかであって、生命の偶然の誕生と長い時間の経過の後に虫が高等な脳を持つ人間となったということで、その脳の働きが精神活動を生じさせていると言うことです。さらに、脳は肉体の一部であり、肉体の死はすべての人間活動の終わりとなるのです。霊的命の存在と活動はなく、死と共にすべての存在は終わるのです。人生には、特定の目的、使命などはなく、それぞれの個人によってどう生きるか、人生とは何かを決定できるとするのが進化論的人生観です。ダ―ウイン自身はそこまで考えていたかどうかわかりませんが、J.ハックスリー、ヴォルテール、ニーチェ、サルトルetc.の哲学者たちによって進化論的人間観は広がったのです。医学の進歩によって脳の研究、解明が進んで、人の精神活動の解明も進んでいます。その中で人の精神的な要素が体の状態にも大きく影響することが分かってきました。
    では、聖書は何と教えているのでしょう。人間のいのちは、創造主によって神ご自身の「かたち/本質」に似せて創造され、初めから人間として存在していると教えています。下等な動物による進化ではなく、神のかたちを持つ尊い存在として始まったのです。創世記2章7節では、さらに詳しく、肉体は土のちり(赤い土アダマ)で形造られ、その肉体の中に「いのちの息(ニシマット)」が吹き込まれて「人は生きるもの(ネフェシュ/魂)となった。」と宣言されているのです。ここで根本的人間観が啓示されています。人は肉体のいのち(バイオス)と神の霊(息)の吹き込みによって、霊的いのち(ゾォーエー)を持つものとして存在するようになったのです。
    この霊的いのちは永遠に存在し、人間の精神活動の源となり、人間全体のコントロールセンターとしての働きをしているのです。

    2018年7月29日 週報

    0
      「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



      「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」 (詩篇8:4)


      日本には様々な宗教があり、多くの人々は家の宗教として、ある特定の寺の檀家や神社の氏子としてかかわっており、祭りや正月、盆そして葬儀ではそれぞれの家の宗教とかかわられることでしょう。しかし、日々の実生活では、それぞれの宗教の教えを信じて、それに従う人々は多くおられないでしょう。
      第二次大戦の敗北によって、以前から広がりつつあった無神論的ヒューマニズム(人間中心主義)の価値観を信じている人々が大半となっています。
      この思想の一つとして、進化論があるのです。ある時代の権力者による支配からヒューマニズムによって個人個人の自由を手にすることが出来たかもしれませんが、真の意味で、人のいのちの尊厳を学び、生きているのではありません。ヒューマニズムによって今日、個人の自己中心的な生き方の暴走が生じており、自殺、無差別殺人、倫理道徳の崩壊状態となることもしばしばです。天皇を神とする神道国家主義の暴走によって300万人以上の人々が戦死し、英霊として靖国に祀られることによって良しとされていますが、聖書は「神のかたちを持つ人間」を殺してはならないと命じているのです(創世記9:6)。
      米国ではつねに大統領選で「中絶」に対してどのような立場であるかが注視されます。聖書を権威とするキリスト者はいのちの尊厳を信じるので「中絶」に反対する指導者を選ぼうとするのです。
      人はどんなに苦しく、つらくても自分の人生に意味があること、生きる希望と価値があると確信しているなら、自らのいのちを重んじるだけではなく、人の命をも重んじて生きようとするのです。進化を正しいとしたなら、いのちの根源は偶然を信じ、虫や猿が人の祖先であると認めなければなりません。さらには自然選択によって、環境に適応する人々だけが生き残って行くのであって、適応障害と判断されるとその人々は淘汰されて当然という理屈となるのです。このような信念は本当に人々を人間として豊かにするでしょうか。生物の世界は決して自然選択ですべてを説明できません。多くの動植物は共生し合っていることを観察するのです。

      2018年7月22日 週報

      0
        「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



        「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」 (ローマ1:20)


        日本における公教育は進化論が一辺倒で、創造論の情報はありません。ですから、創造論は宗教の話、科学や歴史の対象ではないとの思考が刷り込まれているのです。「NHKのダ―ウインが来た!」という番組ではCG(コンピュータグラフィックス)を用いて人類がアフリカから誕生して世界中に広がったと紹介されていますので、コンピュータグラフィックを見た人々は、根拠のない想像図とは考えません。ジャワ原人、北京原人などは、猿、原人、人と進化してきた中間種であると教科書などで、確かな進化の証拠とされてきましたが、進化論者も原人から旧人には繋がらなかったと発表し、多くの人々からは捏造であると非難され、それに対して十分な反論は(専門家として)出来ていないのです。「原人」と言われた化石は十分に科学的に検証できないままです。
        それは人間だけではなく、あらゆる生物の中で中間種の存在は証明されていません。
        進化論はこのように本当に進化(ダ―ウインが主張している種が別の種に変わる)が、起こっている沢山の客観的根拠を見つけて、それに基づいて論文が書かれたのではありません。ダ―ウイン自身が自らの論文の中で、後の時代に多くの証拠が発見されるだろうと期待しながら、彼の信念に基づいて自然淘汰の原理を論じたのです。
        すでに150年以上が経過しました。しかし、シーラカンスや様々の貝は今日も同じ姿で存在しており、中間種と発表された始祖鳥は完全な鳥と認められ中間種ではありません。
        人間は自然環境に影響される以上に遺伝子によって、姿、形、色合いは決定されるのです。突然変異によって新しい種が誕生するのではなく、コピーエラーなのです。しかも同じ種の中においてのみの変化なのです。
        いまだに基本的進化の証拠についての議論が続いています。進化論も初めに進化と言う信念から始まっているのです。化石の多くは創造を支持しているのです。

        2018年7月15日 週報

        0
          「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



          「…あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」 (使徒17:23,24)


          パウロがギリシャのアテネで伝道した時、その町にはたくさんの神々の祭壇があり、人々は思い思いに礼拝をしていました。 その様子を知ったパウロは、聖書の神は人々が造り、人々の手で祭られ守られている神々ではなく、唯一、万物の創造主であることを語ったのです。創造主に関しての正しい知識がなければ、人間の由来、罪の問題、死とその後の裁きについても正しく理解することが出来ず、救い主イエスがメシヤとしてこられ、十字架と復活によって人類救済の御業をなし遂げられたという福音を理解することも信じることもできません。
          日本の宣教の難しさに、神道国家の思想、天皇が神の直系で国民はすべて皇民であるとの考え方と進化論教育による、創造主の否定的な考えが広がっていることにあります
          。 天皇が神であるとの思想は、第二次大戦の敗北と共に真実性を失いましたが、御利益的、縁起をかつぐ神々への信仰は残っており、1877年(明治10年)からの公教育における進化論教育のゆえに、無神論は益々広がっているといえましょう。日本は、進化論においては、ヨーロッパや米国よりも早くから公教育に取り入れられてきました。
          ここでクリスチャンたちがしっかりと弁明しなければならないこととして、進化論は純粋な科学でも歴史でもなく、進化論の信念によって広がっている世界観、人生観であるということです。
          進化論の決定的問題は「種の起源」出版後160年の時が経過しましたが、「中間の化石」はいまだに発見されていないという事実です。ダ―ウインの説が正しいなら、一つの種から別の種に移行する中間の生物の存在が証明されなければなりません。いまだに証明されず、人間とサル、チンパンジーの中間の生物は発見されていないのです。メンデルの法則(1865年)の発見によって、外観の姿、環境ではなく遺伝子による子孫の誕生、種を越えることがないとされたのです。ダ―ウインとその弟子たちは今だに証拠となる化石を発見していません。

          2018年7月8日 週報

          0
            「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



            「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに(セレム)、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」(創世記1:26)


            創世記1章〜3章において聖書全体の教理の苗床が啓示されていると言って良いでしょう。ですから、創造主の存在とその性格についての健全な理解は聖書全体の理解のためにどんなに大切なことでしょうか。もし、文字通りの解釈を拒むなら、いくら聖書を読んでいても正しく聖書を知ることは出来ません。イエスはサタンとの戦いを体験し、論じるとき、エデンの園の出来事について語られました。結婚と離婚についての教えも創世記に戻って論じられたのです(マタイ19章)。パウロはさらに繰り返し、創世記における創造主の存在と人間の罪と堕落したアダムを最初のアダム、そして贖い主となられたイエスを最後のアダムと呼ばれたのですが、いずれも創世記に基づいて論じられているのです。

            6日間の創造のクライマックスとして、人間の創造に言及されました。人も動物のように肉体の生命活動を持つものとして、造られましたが、人間だけが「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…地をはうすべてのものを支配させよう。」と言われているように、“神のかたち(セレム)”を持つ神に似るものとされたのです。

            このことがとても注目されるべきことであり、人間の尊厳の根本的、絶対的理由なのです。動物、植物と人間との決定的違いの理由なのです。神は人を、計画をもって、神のかたちに造られ、その目的をも明らかにされました。この世界を創造主の代表として正しく治めるという目的です。「かたち/セレム」は神の外見に似るという以上に、本質、霊的いのちを持つものとして造られたことを意味します。神の本質は霊です(ヨハネ4:24)。ですから人は人格(知・情・意)を持ち、道徳性、良心、神意識と神との交わり、神の属性(愛、聖さ、正義、公平etc.)などを持つものとして存在しているのです。動物は本能によって生き、食糧が備えられるなら平静に生きるのです。しかし、人はからだのいのちと霊的命を持つものとして存在しているので、人はパン(物質的な満たし)だけでなく、神の言葉(霊的いのちの糧)を必要とするのです。

            2018年7月1日 週報

            0
              「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



              「神の祝福の原理(1)−優先順位−」

              「初めに、神が天と地を創造した。(バーラー)」(創世記1:1)
              「神はまた、それらを祝福して(バーラフ)仰せられた。…」(創世記1:22)



              創世記1章を文字通り理解するなら、創造主によって、人を含めこの天地万物は6日間で創造主が造られたと理解できます。 創世記1章では単純明解に創造に関する要点が啓示されていて文字通り受け止めるか、すべてを比喩的、神話とするかどちらかであり、様々な解釈はあまり説得力を持たないであろう。
              6日間の創造、種類に従っての創造、人間だけが神のかたちをもって男と女とに創造され、被造物を治めるようにと命じられているのです。
              ここでは、文字通りに受け止めるなら進化論を認める余地は全くありません。人間を初め他の動植物も一つの細胞、無機物から長時間(何億年等々)の中で、自然に命が誕生し、より複雑な知的な生物が誕生したという可能性はありません。繰り返し、「その種類にしたがって」と強調されるところからも、「種類」を越えての進化は否定されております。もちろん同種の中で変異は大いに可能性であります。
              「創造した(バーラー)。」は、神による創造の時にのみ使われる言葉で、新鮮な完全な創造を意味し、無から有を生じさせる創造を示唆しているのです。
              さらに22節にある祝福(バーラフ)もバーラーと関連していることからも明らかなように、神が創造されたものを祝福され、ご自身の栄光を現されるのです。
              神はわざわいのために創造されたのではなく、完全なものを創造されたのであり、それは祝福そのものであります。 (「バーラー」創世記1:27,2:3,5:2、詩篇89:12、イザヤ4:5,65:17、エレミヤ31:22etc.)

              2018年6月24日 週報

              0
                「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                「初めに、神が天と地を創造した。/ ベレシート バーラー エロヒーム エト ハシャマイム ヴェエト ハアレツ」(創世記1:1)


                聖書の最初の言葉は、上記のヘブル語の7つの単語からなる文章で始まりました。即ち、聖書の最初の教え、最も根源となる教えが明示されているのです。この文章を文字通り(通常の意味合い)で解釈するなら誰もが神(エロヒーム)によって、この世界(天と地/ハシャマイム ヴェエト ハアレツ)が創造された(バーラー)ことと理解できるでしょう。
                聖書学者のヘンリー・モーリス博士は次のように語りました。「創世記1章1節は、聖書の最初の言葉であり、聖書全体の土台である。もし人が真実に1:1を信じるなら、聖書のすべてを信じるのに困難はないであろう。神が真にすべてのものを創造されたなら、神はすべてを支配し、出来ないことは何もない。」
                聖書の様々な教えの理解、信仰と信仰者の生き方、過去・現在・未来の世界に関しての認識は、万物の創造主の存在をどのように理解して、受け入れるかによって、信じる人々の生き方が変わってくるのです。
                「人とは何者か?聖書に教えられている数々の、人から見ると理性ではとらえることの出来ない奇蹟。人間の罪とは何か?神による永遠のいのち(天国の存在)と裁き(ゲヘナの存在)。キリストの十字架上での死の意義と復活の歴史性、そして、キリストの再臨による世界的平和の実現。」
                これらすべての重要な聖書の教えを文字通り受け止めるかどうかも、創世記1:1の最初の言葉をどのように解釈するかによって大きく変わって来るのです。
                日本における伝道の難しさの要因は、同じ神(カミ)と呼んでも、ほとんど聖書の教える神、即ち万物の創造主なる神を考えないで、人である天皇を神として信じたり、あるいは、八百万の神々と同じと考えるところにあるといえましょう。 聖書の神は万物を創造された神であり、人間によって造られた神々ではありません。

                2018年6月10日 週報

                0
                  「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                  「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。…」 (伝道者の書3:1、11)


                  先週より関西地方も梅雨入りが発表されました。この時期は高温多湿、ジメジメとしてカビが発生したり、誰もが不快を感じる時であります。「つゆ」と「ゆうつ」とは言葉のゴロも合い、この時期には多くの人々が「うつ気分」になることも少なくありません。
                  確かに人は自分の周りの状況、環境にすぐに影響されてしまうものです。ですから、感情のアップダウンの激しい人は「お天気屋さん」と言われるのです。
                  除湿器やエアコンを使って環境を変えることによって不快感をコントロールできますが、それだけでは気分をコントロール出来ないことも多くあります。
                  私たちの人生、そして、この世界も全能の創造主によって造られ、支配されているというのが聖書の世界観であります。創造主をイエス・キリストに在って受け入れた人々は、聖書の世界観で、すべてのことを解釈して生きていかなければなりません。キリスト者としての成長は今までの人生観から、神を中心とした人生観で生きるという変化を求めて行くところに生まれるのです。
                  「梅雨」と表記するのは中国において、この時期に梅の実が熟するので、「この時期の長雨を梅雨」と呼ばれるようになりました。熟した梅の実を漬け込むと来年のこの時期には食べごろの梅干しになるのです。梅のクエン酸は筋肉にたまった乳酸を中和し、疲労回復をもたらすとして、長く人々の生活の中で重宝されてきました。雨が十分に降り注ぐことによって稲が成長し、おいしいお米もとれるのです。
                  すべてがジメジメし、不快感を多くの人々が覚える時期ですが、これも日本と言う国に住む者に与えられている恵みの雨として受け止めてはどうでしょうか。近年は毎年、大雨洪水、土砂崩れなどの災害が発生していますが、今年は災害のない梅雨として終われるように天の神に祈り求めましょう。
                  エリヤは何とすごい祈りの人であったことでしょうか。
                  「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ5:17−18)

                  2018年6月3日 週報

                  0
                    「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                    「私たちは神の作品」

                    「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」 (エペソ2:10)


                    今年は明治維新(1868年)から150年と言う節目の年で、その時代に活躍した人々の話が話題となっており、その中での代表格として、西郷隆盛が取り上げられています。NHKの大河ドラマ“西郷どん”として、人気のドラマとなっています。
                    やはり、明治期に活動しているキリスト者内村鑑三氏は彼のことを、明治維新をもたらした第一人者として挙げ、彼のような「克己無我」の人であり、さらに人情味に溢れる人と絶賛しています。隆盛の「南州翁遺訓(なんしゅうおういくん)」の中には「人は第一の実にして…」と、どのような制度、方法よりも「人」を重んじ、人が育てられなければよい社会、国は生まれないと教授しています。「教会(エクレーシィア)」は正に、建物や制度以上に「人々の集まり」であります。「教会の飛躍」とは信徒一人一人のキリスト者として、成長を意味しているといえましょう。
                    教会は様々な背景を持ち、個性を持つ人々の集まりです。教会にはそれぞれの教えや特徴がありますが、いずれにしても、一人一人は神様の作品として救われ、作者である神の意志を豊かに反映して育まれる所に真の成長があるのです。
                    沢山の人々がそれぞれの賜物を自分の好きなように、即ち、自分の作品を作り上げようとするなら、すばらしい教会として成長することはありません。
                    神様は一人一人をご自分の作品として、一人一人に素晴らしい使命を託しておられるのです。我欲によって作る作品は素晴らしいものとはなりません。しかし、キリストが私たち一人一人の内にあって大きく成長するなら、それは素晴らしい神の作品となるのではないでしょうか。
                    “西郷どん”が座右の銘としたことは「敬天愛人」は聖書の影響と近年では解説されています。
                    明治6年2月24日、西郷隆盛が政府の実権を持っている時に、キリシタン禁教高札が撤廃されました。 

                    2018年5月27日 週報

                    0
                      「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                      「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。」 (ルカ12:2)


                      この一年以上、連日のように、加計学園問題、森友問題がニュースとして報じられ、いまだに真実が明らかにならず疑惑が深まるばかりです。そのような中で、日大のアメリカンフットボール選手による反則プレーが話題となり、選手個人の責任か、監督コーチの責任かが報じられました。20歳の当事者である選手は、まず、公の記者会見を開き、自分の判断による責任と、コーチ、監督からの指示、プレッシャーがあったと告白したのです。 ところが、その後日、監督、コーチの会見は、選手の告白とは違い、それぞれの責任を認めつつも、「指示はしなかった。」と断言しているのです。どちらが真実を語っているのでしょうか?一方が真実を、他方が嘘を言っている…。それともどちらも真実なのでしょうか…。日本の文化の中で、恥を公にさらすよりも“腹を切れ”と言う生き方があり、そのDNAがここにも引き継がれているのかもしれませんが…。そのような中で、自分の弱さや責任を告白することが、とても難しく思う人々もいるでしょう。もちろん多くは、自分の立場、権力を失うことを恐れていると思われます。他の文化の中で、真実を告白するなら、罪は問われないという手法で真実を明らかにして再発を防ごうという考え方があります。 “赦しと回復”という文化が育まれていない社会では、正直に罪を告白し、真実が明らかになるというのはとても難しいのではないでしょうか。 聖書は神の愛(アガペー)が根本的理念として教えられ、その愛の現われは、キリストによる身代わりの犠牲と赦しであります。 誰でも、どのような罪深い者も、罪の告白と受け入れる信仰によって確かな赦しと回復が約束されているのです。又、すべての、隠され、おおわれている一切の罪はいつか明らかにされ、裁かれるのです。 ここに神の愛と正義が示されているといえましょう。真実はかならず神の御前において明らかにされることでしょう。

                      | 1/26PAGES | >>

                      calendar

                      S M T W T F S
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      262728293031 
                      << August 2018 >>

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      links

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM