2019年9月29日 週報

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    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



    幸いな人(11)―実を結ぶ人々

    「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」 (詩篇1:3)

    6月の梅雨前に駐車場の草を刈りました。そして、2週間前にも草刈りを行いました。わずかな時間で雑草が伸びてしまうのです。
    どうしてこんなにも早く成長するのでしょう。
    主な2つの理由が考えられます。第一は、その雑草にはいのちがあるからです。造花の草花であれば、しばらくの期間完成されている状態を保つでしょうが、大きくなったり、繁殖して増えひろがることはありません。いのちあるものは、本来、日に日に大きく成長するのです。いのちがなければ成長することはありません。もう一つの理由は、いのちを成長させる、命の最も大切な要素である水が十分にあって供給されるからです。雨が降らず大地が乾燥すると、雑草は大きくならず、多くは枯れてしまうのです。 詩篇第一篇では詩篇全体のテーマが謳われていると考えてよいでしょう。それは、「幸いな人(アシュレー ハ イーシュ)」であります。幸いな人(その人)は「時が来ると実がなり、枯れず、栄える。」と約束されているのです。
    その人が、「水路のそばに植わった木」にたとえられていることが分かります。
    「いのちがある」というのは体のいのちのことでしょうか?いいえ、まことのいのち、霊的ないのちのことです。人は、肉体の誕生のままでは霊的には死んでいるのです。(エペソ2:1)。パリサイ派の教師であるニコデモにイエスは「新しく生まれ変わる」必要を説かれました。神の子として生まれている者は必ず成長するのです。神様からの多くの祝福としての実を結ぶのです。しかし、いのちがあってもいのちの源である水路のそばに植わっていなければならないように、神様から離れていては実を豊かに結ぶことはないのです。
    あなたの結ぶ多くの実はあなた自身の喜び以上に人々の喜びとして用いていただきましょう。

    2019年9月22日 週報

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      「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6





      「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

      台風15号によって千葉県の南部では大きな被災が発生し、今日も停電が続いており、様々な問題が発生しています。人は暗闇の中で安心して生活することはできません。
      2020年のオリンピックイヤーを目の前にしながらも、社会は猛スピードで混迷へと向かっているのではないでしょうか。福島の原発事故による汚染水の処理、毎年のように起こっている異常気象による災害、10月には消費税問題と天皇の即位、日韓関係の悪化、アメリカと中国の貿易戦争、サウジアラビアの油田攻撃とイランと米国との戦争の危機、イギリスとヨーロッパとの関係、ドイツ経済の混乱、父親が子供を殺すという最悪の家庭状況…。現実が分かれば分かるほど、明暗の混在のすさましさに圧倒されるばかりではありませんか。
      20Cには大きな世界大戦が二度も起こり、沢山の犠牲者が出ました。人々は、二度と戦争はしないと誓いましたが再び、各地域での、主に経済摩擦が切っ掛けでしょうか、軍備を強化し、自国の民族を守るとの口実で戦争を正当化しようとしています。日本も政府は声を大きくして“憲法改正”をスローガンとしています。そこには中国、朝鮮、ロシアの隣国との関係悪化も背景となっているでしょう。
      キリスト者は、このような社会、世界情勢を知って、どのように考え生きるべきなのでしょうか。私たちの使命は「世界の光」(マタイ5:14)として輝くべきなのです。どんなに小さくても、真っ暗闇の中では、貴重なあかりとなるのです。光が輝きを失ったり、机の下に隠れたりしては、役割を果たすことはできません。今日の社会、世界の到来は、バイブルを知っている者にとって、想定外ではありません。イエスと使徒たちはやがてそのような社会、世界がやってくると預言したのではありませんか。まことの光である神の言葉を信じる人々は幸いであり、自分の為だけでなく、周りの人々にも、正しい安全な道を知っていただくために、御言葉の光を輝かせて行きましょう。

      2019年9月15日 週報

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        「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



        「幸いな人(9)−感謝と賛美と喜び−」

        「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14)

        日本人の平均寿命は世界一で、平均健康寿命もシンガポールに次いで第二位です
        。 この傾向はさらに進み、人生100歳時代が来るとも言われています。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」(創世記25:8)とあるように、長寿は神の祝福であるとの教えがございます。長寿を全うしたアブラハム、ヤコブ、そしてモーセも召される瞬間まで神のしもべとして現役で仕えていたと聖書は語っています。
        私たちの教会には80歳以上の会員の方々が16名も属しておられ、その多くの方々が、礼拝者として、毎日曜日に集っていただいていますことは、なんと素晴らしい祝福でありましょうか。教会も開拓よりすでに半世紀以上過ぎ、世代交代を実現させ、さらなる発展を願っていますが、これらの祝福は、長年、教会の中核的役割を果たしてくださった兄姉の皆様の犠牲的、献身的祈りと奉仕があったことの故であることを忘れてはなりません。
        しかしながら、信仰者生活は、生涯現役であります。奉仕の役割は常に変化し、移り変わるのでありましょうが、神は一人一人に生きる目的、使命を与えて下さっていますので、どのような長寿となっても、主に在って生きがいを持ち、長寿を全うしていきたいものです。
        人にとって間違いないことは、いずれ、この地上のいのちには終わりが来ることです。「武士道とは、死ぬ覚悟を見つけたり。」との言葉が日本では語り伝えられてきましたが、キリスト者の覚悟とは、いのちをあきらめる覚悟ではありません。救い主キリストの復活という歴史的事実を確かな拠り所とする、死ぬ覚悟、永遠のいのちへの確かな希望によって死に対峙する覚悟であります。
        詩篇の記者は真の神を知る人々は、あらゆる場合にも感謝する心を持ち、その感謝は神への賛美となり、心は喜びであふれると詩い、そのような人々は年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしいと神を信頼する長寿者の生き様を描写いたしました。 心より敬老をお喜び申し上げます。

        2019年9月8日 週報

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          「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



          「幸いな人(8)−心の貧しい人−」

          「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

          聖書には480回以上「幸い(アシュレー)、祝福する(バーラク)」という表現が使われており、幸いな人生のためのガイドブックと言ってよいでしょう。
          神は、人をご自身のかたちに似せて、人々を祝福し、神の栄光を現わそうとされました。しかし、人は、神から離れ、自己の知恵と力によって、自分たちの欲することの中に幸いを見つけようとしていますが、羊飼いから迷い出た羊のように、自分たちの欲する道を歩みつつも、そこには常に危険があり、真の安心と満たしはありません。21Cの世界の混迷は、ちょうど羊飼いから迷い出ている羊のようではないでしょうか。
          イエス様は、ご自身の代表的説教(山上の説教)の中で「心の貧しい者は幸いです。」と語られました。「貧しさは」人の常識からすれば、不幸の条件の一つです。このような言い回しをされた一つの目的は、イエスの教えは、人々の考える価値観とは、別の真の価値観で教えようとされていることを示しています。単なる貧しさがすべて幸いというのではありません。「心の貧しい者」と言われました。原文を直訳しますと「霊において、in Spirit」となります。それは、人の肉体のいのちよりも高次のいのち、内面のいのち、その人の本質にかかわるいのちのことです。イエスは「宝のある所に心もある。」と言われたように、こころはその人の人格の座であり、心が何を求めているかがその人が真に求めていることと言えましょう。
          人の自己認識で、自分の本質において、「弱さがある、足りなさがある、満たされていない、本当の拠り所を必要とする」と、へりくだった心であるかどうかということです。人は、自分を神になろうとして堕落しました。人は自分の弱さ、足りなさ、汚れを気づかずして、真に神を求めようとはいたしません。
          放蕩息子は、父を認めず、必要とはしないと慢心して、自分の好きなように生きていました。しかし、自分の貧しさを真に自覚しへりくだることによって、父の家に帰り、再び子供として扱われる幸いに戻ることが出来ました。心の貧しさへの気づきは、神を受け入れる人生をスタートさせる第一歩です。

          2019年9月1日 週報

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            「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



            「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。…あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 (マタイ6:24)

            2017年と2018年に国際NGO「オックスファアム」は「8人の大金持ちによって世界人口の半分と同等の資産を持っている」「世界の富の82%は、1%の富裕層に集中」との文書を発表しました。70億人いる世界の8億人は飢餓状態と言われており、飽食の国に住む人々との格差は生死の格差と言えましょう。日本は27年間対外純資産は、328兆円で世界一位です。ところが、庶民は決して豊かではなく、年金も頼りにならず、不満と不安が広がるばかりです。第二次世界大戦後の世界経済発展の中で、益々格差が広がっていることに多くの方々が危惧されているのではないでしょうか。
            聖書は人間の生き方の根本として、「神に頼る」か、「富に頼る」か二つの生き方があり、両方に同時に仕えることはできないと教えています。さらに、富は決して不変、永遠に変わらないものではなく、いつ失うか分からないもの「頼りにならない富」(汽謄皀藤供В隠掘砲閥気┐董∧僂錣襪海箸里覆ぁ⊃燭凌世忙鼎┐襪茲Δ法△泙拭◆崚靴吠を積むように」と教えています。イエス様はガリラヤ湖畔で有名な山上の説教(垂訓)を語られましたが、そこでは9回「幸いな者たち、マカリオイ(ギリシャ語)」とはどのように考え生きる人々であるかを説いておられ、「神に仕え、また富にも仕えるということはできません。」は、その説教の中の一つの教えです。「富(マモーノン)」は、道徳的には中立で善でも悪でもありません。人の忠実な努力に対する報酬、祝福として与えられるとの教えもあります。イエス様は「幸いな人」とは、「神を信頼し、委ねられている富を正しく管理する者となることです。」と教えられていました。この世の多くの人々にとって「富(マモーノン)」が神となっているために、人々は富に支配され富を正しく管理できなくなっているのです。ですから富は正しく使われません。本当に助けを必要とするところにはお金(富)は集まらず、富は富を生み出すところに集まってしまうのです。東日本の被災者の方々に十分な支援が配られているでしょうか。その地域に大きな建物ができました。その建物はパチンコ店でした。パチンコ店のために何億もの投資がなされました。それはさらなる富を生むからです。

            2019年8月18日 週報

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              「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



              「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』
              ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。』」   (創世記1:28−29)


              若手の日本人政治学者が、政治的な意味としての「保守」について定義されていたことに注視しました。保守とは「人間の理性や能力を絶対視せず、不完全であるとして、他の主張、思想にも寛容で作り上げようとする主義」と説明されました。この「保守」を定義した人物は、キリスト教的背景がある人物であると紹介されていました。創世記1章から3章をどのように受け止めているかは、その人の信仰が聖書的なキリスト者かどうかを明らかにすると言ってよいでしょう。残念ながら、キリスト教のカンバンを掲げていながら、創世記を歴史と受け止めずに、神話とする人々も少なくありません。そうすると聖書は日々の人生のガイドブックではなく、道徳の一つのテキストでしかありません。19Cから人類は大きく誤った道を歩み出しました。それは創造主を除いて、人間が神となれると勘違いし、人間の理性と能力を絶対視して生きようとするところにあります。それは政治哲学にも影響しているのです。神の最初の「祝福(バラク)」は、人に「生めよ。ふえよ。地を従えよ。」…「すべての生き物を支配せよ。」と治める特能をお与えくださったのです。さらに、人とすべての生き物に「食物」を備えてくださいました。「人口問題」「平和な統治」そして「食糧問題」は、現代人にとって、全く関係のない話でしょうか。私たちの幸いと、子どもたちの誕生、正しく家庭、社会を治めること、そして、争わずに仲良く平和に過ごすこと、さらに食事に与り、満たされて、からだと心の健康を保つことはとても重要なことです。神は、これらのことを祝福として人類に与え、備えてくださいました。しかし、人は自分の考えで出産、統治、そして、食糧分配をしようとしてきました。今、約70億人いる地球上の約8億人は、常に飢餓状態です。その所では常に争いが止まず、分配が正しく行われていません。飢えと病気で子どもたちは死んでいるのです。

              2019年8月11日 週報

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                「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」 (イザヤ45:22)

                74年前の8月6日と9日に人類史上初めての原爆が投下され、広島と長崎で、23万人以上のいのちが奪われました。さらに50万人近い人々が被爆の苦しみの中で生涯を過ごされているのです。毎年、この時期になると広島、長崎から核廃絶のメッセージが発信されていますが、依然として多くの課題が残されています。
                すでに衆知のことでありましょうが、原爆開発にかかわった科学者の大半がユダヤ系の人々でありました。原爆開発の物理学研究は初めヒットラーによってドイツで始まりましたが、ユダヤ人迫害で多くの科学者はイギリスに亡命して、チャーチルの下で研究が進んでいました。アインシュタインはアメリカに直接亡命しましたが…。チャーチルは厳しいドイツとの戦争で十分な資金もなく、直接アメリカのルーズベルトの自宅を訪れ、科学者と研修資料を託すので、アメリカで、この研究開発を行うようにと強く求めユダヤ人科学者もドイツへの投下を考え協力したと言われています。
                1941年10月から始まり、12月に太平洋戦争がはじまりました。1941年11月、マンハッタン計画はユダ系アメリカ人ロバート・オッペンハイマーを委員長として、ニューメキシコ州、ロスアラモス研究所で始まり、1945年7月に初めて実験に成功し、翌月広島、長崎に投下されました。1939年にドイツから亡命してきたユダヤ人科学者レオ・シラードがナチスの下で原爆が開発されていることを恐れ、アインシュタインを介して、ルーズベルトに書簡を送り、米国での開発を強く促しました。この秘密裏に行われていた研究は、スターリンと通じる科学者によって、すべての進捗状況がソ連に伝わっており、日本に投下されること、日本敗北が近いことを知っていたと言われており、ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して、8月8日に満州進攻をはじめました。
                ここで皆様に知っていただきたいことは、なぜこのような歴史的重大事に、ユダヤ人が深くかかわっているのかということです。彼らは最大の戦争の被害者であり、時として、原因ともなっているのです。今日でも、軍産複合体支配にユダヤ人が関わっていると言われています。
                聖書の最大のメッセージは、万物の創造主、唯一の神が存在しておられ、人間は誰であってもこの神を神として崇拝することであり、まことのいのちと道、平和は、この神を神として認め、受け入れることによるとのメッセージです。ユダヤ人の存在はあなたにとって良くても悪くても神の存在を気づかせるためのしるしであるのです。

                2019年7月28日 週報

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                  「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                  「幸いな人(3)主に拠り頼む人〈2〉」

                  「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」 (詩篇2:12)

                  1960年―1970年に活躍したユダヤ系アメリカ人心理学者アブラハム・マズローは「人間性心理学」というカウンセリングを確立したことで知られています。フロイトが悩んでいる多くの人々を観察、治療しながら「精神分析」という学説を確立したのとは対照的に、彼は元気な人と思われる人々を観察して、「欲求5段階説」を唱えました。
                  人間は欲求を持ち、その欲求が実現するとより健康的、生産的に生きるようになり、幸いになると考えました。
                  第一段階は「生理的欲求」食べる、飲む、睡眠、第二は「安全の欲求」健康、仕事、安心できる生活環境、第三は「所属と愛の欲求」家族、友人、自分の所属、アイデンティティ、第四は「承認の欲求」人から認められたい、尊敬される表彰され価値ある存在としての認識、そして、最後は「自己実現」自己中心的と言うのではなく、自分を最大限生かす生き方、それによって自分と周囲にも幸いをもたらすとの説です。
                  確かに、人は欲する者として存在し、成長と正しい管理、創造を生み出す者として期待されていました。
                  しかし、現実の社会はマズローが主張するような自己実現へ、彼はさらに超自己実現という至高の段階を説いたのですが、ここに達する人は「どれ程いるか?」と言うことであり、多くの人々が上の階層に到達できず、あるいは、到達したと思われても、そこでは期待した程の満足、平安が体験できず、心は満たされないということではないでしょうか。21Cの今日、物質社会は、60年代、70年代とは比較にならない発展を遂げました。しかし、益々、人々の心は、自己主張を求めてやまず、競争、争いはエスカレーションし、強い者が弱い者を支配するという傾向が進むばかりです。100万人以上の日本人が、何らかの心の病で苦しんでいるのです。たとえ多くの物、富を手にしていても心は平静ではありません。神のことばは、永遠の愛で私たちを愛しておられ、このお方こそが人間の真の父であり、人が拠り所とすべきお方として招いておられるのです。主なる神を心の拠り所、避けどころとする人々は、幸いな人々です。
                  「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)

                  2019年 7月21日 週報

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                    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                    「主に信頼して善を行なえ。…。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。…」(詩篇37:3,8)

                    人は「心の拠り所」がなく、あるいは失ってしまうと、心理的下降線を辿っていくと言われています。
                    その出発点は「拠り所」に対する「疑い」から始まります。今、自分が信頼しているものは十分ではない…。何か他のものが必要です。自分の生活に「満足」があれば疑いが生じたり、不満が拡散することはないでしょう。「私はもっと〜しているはずなのに…。」と満たされない思いが疑いと共に強くなってくるのです。
                    その「不満足感」は、「不安(必要なものを手にできなかったらどうしよう。)」や「怒り(必要としているのに、それが手に入らないなんてもう嫌だ。)」を生じさせ、最後には「絶望(希望が持てない感情)」的になってしまうのです。
                    その時代の社会に公正や公義が失われていると思われると、それは個人の道徳意識も弱っていることも同時に存在していると思われるので、人は自分や他者に対して破壊的になってしまうのです。
                    21Cの世界がテロでスタート(2001.11.3)しましたが、益々世界中で「疑い」「不満」「不安」「怒り」の感情が渦巻いており、考えられないような事件が繰り返されています。
                    あちらこちらで、自然災害が増大し、戦争のうわさが起こっており、人々は益々暴力的になってきているのではありませんか。 万物の創造主を認めず信頼しない人々は、自分の思いを遂げることで満足と幸いを手にしようとしますが、人の考える欲求は満足を知らず限りがありません。

                    聖書は「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」と語っているのです。キリスト者の「拠り所」はどこにあるのでしょう。この社会の公正、公義でしょうか…。私たちの「拠り所」は永遠に変わることのないお方、万物の創造主、主権者なるお方にあるのです。「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせて下さる。…。」詩篇37:34

                    2019年7月14日 週報

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                      「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                      「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇8:5)

                      人の尊厳が聖書では、明確に宣言され、教えられています。人は全知、全能の創造主なる神の“かたち”に似せて造られ、創造主にとっての最高の作品であり、誉れとされたのです。
                      人は他の動植物にない自由意志を与えられたものとして、自ら進んで創造主の意志を受け入れ、従うことによって、神の栄光、誉れを現わし、人の本来の役割を果たす人生を過ごし、そこに満足、平安、喜びを手にする者となり得たのです。
                      しかし、今日の世界は神の愛によって、治められる平和な社会とはならず、人の欲と欲とがぶつかり合って、争いの絶えない世界となっています。力の強い者が多くを持ち支配するでしょうが、それは一時的で新しい別の力強い者によって奪われ、別の人が支配するということの繰り返しではないでしょうか。
                      そのような生き方は、真に「幸いな人」となったとはいえません。しかも、人はどんなに多くの持ち物を手にすることができても、物質的豊かさで満足することはできません。
                      人の本質が神のかたちを持って造られているからです。動物は、人間が持つ魂や霊的命がありません。しかし人は、神のかたち、即ち霊的な命を持つ者として存在しているために、いくら肉の欲求、生理的欲求が満たされても満足することはありません。
                      ソロモン王は巨万の富を手にしました。自分の肉の欲するものは、何でも手にすることが出来ましたが「空の空」という言葉を残していることは、誰もが知るところです。
                      キリストも言われました。「人はパンだけで生きるのではなく…。」(マタイ4:4)創造主を否定し、無視して生きることによって、真の幸いな人となることはできません。
                      創造主は人に栄光と誉れの冠を与えて下さったのです。幸いな人となる鍵は、まさに、神と共に生きるところにあり、人の欲に生きるのではなく、神の欲することを求めて生きるところにあるのです。

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