8月14日

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    「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」 イザヤ40:31

    神は不完全な人を用いて業を行われる −その時の背景―  牧師 表 博之

    「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 (汽謄汽蹈縫隠機В隠供檻隠検


    日本人メジャーリーガーのイチロー選手がメジャーで3000本安打を達成しました。すでに日米通算では大記録を達成されたのですが、今回は日本だけでなく、米国でもこの大記録達成に称賛の嵐が起こりました。
    イチロー選手はいつも冷静な方ですが、会見で感激の涙を流されながら、「自分が3000本安打を達成したこと以上に、人々がこのことを喜んで下さり、人々の喜びのために生きれることが幸せです。」とのコメントにとても強く胸を打たれました。
    人はそれぞれの分野で頂点を極めるとき、自分の満足以上の大切なことに考え気付かされるものです。人は決して虫や獣の進化した存在ではありません。神の形を持つ存在であります。ですから、確かにこの地上で生活するために体はある程度のパンを必要としますが、パンを十分に持っていればそれで安心し、満足するものではありません。豊かな食卓を囲んでいても争いが絶えない家庭であっては、夫婦は言うまでもなく、子供たちも喜べないでしょう。ゲーテは次のように語りました。「王であっても、農夫であっても、その人の家庭に平安があればその人は幸福な人です。」
    神は人々をご自身の代わりに、この世界を正しく治め、神の国を永く保つようにと願われたのですが、人々の罪故に、この世界はいつもどこかで争いがあり、悲しみがある世界となってしまったのです。神の子たちは、平和大使として神様から託された使命があるのです。まず、一人一人が自分の心の平和を治める者でありましょう。日々の生活において、毎日のように様々なことが生じています。一つ一つの事柄をいつも喜び、感謝出来ないこともしばしばですが、それでも、神様の命令は「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することです。」神の子としての自己評価をしっかりと持っているなら、周囲の状況に振り回されずに歩むことが出来るのです。イチロー選手の最大の発見と喜びは、「自分のことで、人々を喜ばすことが出来たこと、人々の喜びのために生きれる自分こそ最も幸いな者である」とのことでした。

    8月7日

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      「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」          イザヤ40:31

      − 信仰者の生き方 −            牧師 表 博之 

      「彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」 (ヘブル11:5−6)

      リオ・オリンピックが開幕されました。かつては“参加することに意義がある”と言われていましたが、今日では“メダルをいくつとれるか”に人々の注目が移っています。開催国の経済的利益追求も関心事と言っても良いでしょう。時間と共に目的や人々の関心も移り変わる世の中ですが、キリスト者にとって、生涯の健全な目標を変えてはなりません。それは「神に喜ばれること」であります。 アベルはカインにねたまれ殺されました。他方エノクは長寿であり、死を見ることなく天に移されました。二人の地上の生活は対照的に思われます。しかし、へブル書11章に出てくる人物たちはいずれも、この地上にあっては、神に喜ばれることを常に人生の目標として生きていたのです。その点では変わることはありませんでした。 人生は生まれながらにしていろいろな違いがあります。人はしばしば自分の生い立ちについて考え、他人をうらやむことがあります。しかし、神を喜ばすことを願い求めて生きる人々は神様の豊かな祝福に与かるでありましょう。サウル王は自分が王の地位にありながら、武将のダビデをねたみました。ヨセフは兄弟たちからねたまれて、奴隷としてエジプトに売られましたが、「神を喜ばせること」を心掛けたので、神がともにおられ、ヨセフのすることすべてを成功させてくださいました。時が来ると、エジプト全土の権限を手にする地位に就いたのです。人は自分の満足を求めて努力するのですが、なかなか満足できません。「満たされたかな!」と思っても束の間の満足であることがしばしばです。神に喜ばれたエノクは“神とともに歩んだ”と言われました。エノクは神に信頼し従ったのですが、常に神がともにおられるとの認識の中に生きていたのです。神は私たちと共におられ、歩んでくださいます。ところが、私たちの不信仰による疑い、自分の思い込みで神を忘れたり、遠ざけたりしてしまうのではないでしょうか。神を喜ばすために信仰が求められます。神がおられること(存在、臨在)と共に祈りに答えてくださるお方であることを信じ続けましょう。

      7月3菊

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        「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」          イザヤ40:31

        − 信仰者の生き方 −            牧師 表 博之 

             「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)

        海外では毎週のようにテロで多くの人々が死傷しているとのニュースが流されていますが、日本では比較的安全に過ごせていました。ところが26日(火曜)未明に相模原市の障害者施設で19人が殺され26人が重軽傷を負うという大惨事が起こりました。多くの人々が熟睡している間に刺し殺され、傷つけられたのです。犯人は自分で警察に自首して捕まりました。事件の残虐さだけでなく、計画、予告そして実行…。その動機として「障害者なんていなくなってしまえ」と語っていたといわれています。たとえどのような価値観を持っていても、わずか1時間足らずで、人々を殺せるのは異常な精神状態であったことには誤りありません。現実とバーチャル(仮想社会)の混同やテロによる無差別殺傷報道からの感化、さらには自分の人生における挫折からの自暴自棄的行動など、様々な分析がされるでしょう。20年ほど前の須磨での少年による惨殺事件を想い出される方もおられるでしょう。彼の人命軽視の考え方も同根の哲学です。「人間もゴキブリも同じや」異常な精神状態ですが、同じような自然淘汰を理屈として自分の行為を正当化していましたが、今回の青年の理屈も同じではないでしょうか。自然選択説を世界観と信じる人々が常に弱者を殺すというのではありません。このような行為をする人は個人的な人生観や自分なりの特別な事情を持っている故でありましょう。しかしながら、自然選択説は強い者の理屈であり、弱い者にとってとても厳しい人生観となっています。
        神様の前には、強い者も弱い者もありません。すべての人は罪人として断罪されるのです。と同様に、どんな弱いと言われている人々も変えられて強くされるのです。イエス様は「わたしは罪人を招くために来たのです。」と言われました。その言葉は単に罪人と思っている弱さを自覚している人々とだけでなく、自分を正しいと、強いと主張する人々にも、あなたも神の救い、助けを必要とする弱い人々ですよと語っているのです。ただ多くの人々は自分の本当の姿を認めず気付こうとはしません。
        ヒューマニズムは一見、自由と命の権利を尊ぶように思わせますが、残念ながら、ヒューマニズムによっては人間の自己中心性の故に、愛による分かち合いは実現していないのです。

        7月24日

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          「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」          イザヤ40:31

          創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(26)
          − 平和の祭典 −            牧師 表 博之 

               「幻(ハーゾーン)がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(箴言29:18)

          いよいよ、来月(8月)にはブラジルのリオで平和の祭典としてのオリンピック、パラリンピックが開かれようとしています。各自の技を競い合うだけでなく、人と人との交流を通して誤解を払拭し、相互理解を深め、共存共生の平和な世界を実現しようとの願いがあります。ところが大会を前にして大きな問題が生じています。ロシア選手のドーピング問題で、黒と判断され、ロシア陸上競技の選手の出場が危ぶまれています。ロシア政府はこのような判定を政治利用として、反発しているのです。中国の南沙諸島領有権を仲裁裁判の判決では法的な正当性を明確に否定しました。ところが中国はその判決に猛烈に反発して無視し、強固となっています。各地で無差別に行われるテロ、それに対する報復攻撃など、21Cの世界は初めから人間生活の様々な分野で“ 民はほしいままにふるまう。”と言われていることが起こっているのではありませんか。
          ニンテンドウから新しいゲームが発売されましたが、人々の楽しみのために、社会秩序が混乱する危惧もあります。自動車の便利さ、スピードは人々の生活を大きく変えました。しかし、どんなに便利で人々を幸いにする車であっても、交通ルールを守らなければ人々を傷つけ死なせる道具となってしまうのです。公平なルールとそのルールの遵守があってこそ、スポーツは人々に感動を与え、人々を強く結びつけるのではないでしょうか。70数年前、各国は自国の利益を第一として、共通のルールを無視して、ついには第二次世界大戦となったのです。今、その時の悲惨さを体験した人々が少なくなり、各国は過去の同じ失敗を繰り返す道を選択するのではないかとの心配が杞憂で終わればいいのですが……。ルールが守られるところに安全と平和が実現し、そこに幸いがもたらされるのです。人間が生きるための根源的ルールは何でしょうか。
          第一は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」であり、第二は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということです。このルールは聖書が教える人々のための実際的、普遍的、根本的な安全、平和のためのルールであります。

          7月17日

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            「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」          イザヤ40:31

            創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(26)
            − あれから45年 −            牧師 表 博之 

                 「…イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。」 (ヨシュア記14:10)

            今年から18歳以上の人々に選挙権が与えられました。これは歴史的な出来事です。若者たちを重んじようとする一つの象徴的なことです。超高齢社会となり、若者の活躍が急務となっているのです。しかし、キリスト者としての大切な視点は、その人の年齢ではなく信仰の元気さであり、強さです。
            カレブはすでに85歳となっています。しかし、彼の信仰は変わることなく益々成長し続けていたのです。そのために85歳であっても気力は衰えず、勇敢さとチャレンジ精神であふれていました。誰でも年齢と共に体力の衰えを覚えるものです。しかし、信仰を保ち成長させるなら、その体力の衰えを補い支えてくれるでしょう。なぜなら信仰によっていのちの源である神と結びつけるからです。
            パウロは次のように語りました。「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(汽謄皀藤粥В)。
            カレブの信仰について考えてみましょう。45年前にイスラエルの民は大きな決断をしなければなりませんでした。カデシュから前進して約束の地を目指すかどうかの決断です。彼らの目の前には丈体の大きな民族が住んでおり、12人の偵察隊の内10人までが前進できないと判断しました。その時ヨシュアとカレブだけが信仰によって前進することを提案しましたが、結局は後退の道を選択し、そのために40年間も苦しい流浪の旅に甘んじなければなりませんでした。カレブはそのような中でも信仰を守り85歳の日を迎えたのです。カレブの信仰の驚くべき継続性を学びたいものです。それは若い時から純粋な信仰を身につけていたからではないでしょうか。それは現世利益的な信仰ではなく、神の全能と主権をしっかりと受け入れ、神と共に生きることのすばらしさを身につけた信仰であります。目の前の苦しさ大変さによって惑わされ、勇気を失ってしまう人々が多くいます。イスラエルの民は、エジプトを奇蹟的に脱出したにもかかわらず、水がない、肉がないと、すぐにつぶやき神様の偉大さや、恵み深さ、誠実さを忘れ、疑ってしまったのです。しかし、カレブは「もし、私たちが主の御心にかなえば」「主が私と共にいてくだされば」「できましょう」と常に約束の実現へと向かい前進への決断をしたのです。実際、カレブとヨシュアだけが約束の地に入り、10人の偵察した人々は約束の地に入る前に死んでしまったのです。信仰による勇気と決断を願い求めましょう。

            7月10日

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              「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」          イザヤ40:31

              創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(25)
              − 今日、神と共に歩もう! −            牧師 表 博之 

                   「彼らは、『カイザルのです。』と言った。そこで、イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」(マタイ22:21)

              歴史の中で常に政治と宗教とは深くかかわってきました。今日でも顕著なのがイスラム教と国との関わりです。ある国では宗教的リーダーが政治のリーダーとなっています。キリスト教も5世紀ころから19世紀ころまで様々な地域で国教としての位置づけがありました。日本も神道(天皇制国家)と深くかかわった体制が維持されています。幸いにも現行憲法によって「信教の自由」が保障されていますが、いつ再び豹変するかわかりません。
              聖書は教会のリーダーが政治をコントロールしたり、逆に政治のリーダーが教会を支配することを許していません。いずれも神様が定められた組織です。それぞれに権利と責任があるのです。教会は政治的リーダーの権威を尊重し、定められた法律にできる限り従わなければなりません。税金を納め、投票に参加し、指導者のためにとりなしの祈りをするのです。国家は教会の信教の自由を守らなければなりません。特定の宗教のみを容認し、他を排することをしてはなりません。ある宗教グループが道徳や人々の命、財産を脅かすこと以外において、自由な活動を保障しなければならないのです。
              教会史において長い間、ヨーロッパ、イギリスにおいて国教制度が続いていたのですが、バプテストの先祖は常に信教の自由を求めて戦ってきました。歴史の中で顕著となったバプテストの活動は、イギリスにおいてピューリタン運動による独立派や分離派の人々から生まれたと言われていますが、すでにそれ以前にカトリックの時代からも国家宗教に参加しなかったグループは存在していました。17世紀にアメリカのロードアイランド州が設立されるとき、初めて信教の自由を保障する州法が書かれました。後にアメリカがイギリスから独立する時、このような精神が採用されたのです。このような歴史の過程においてバプテストの多くの祖先は殉教してきたのです。20世紀には広く民主主義が世界に広がり、その中で信教の自由が保障されていますが、21世紀の今日、再び世界は自国民主義に移行しようとしています。私たちの国も同様の方向に流れるかもしれません。今日は将来の日本の在り方を決める大切な選択の日であります。

              7月3日

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                「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」          イザヤ40:31

                創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(24) 
                − 信仰による選択と前進 −            牧師 表 博之      

                「しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。『私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。』」(民数記13:31)

                    イギリスがユーロから離脱を選択したことで、世界中に大きな衝撃波が広がっています。多くの人々がイギリス人の中においてもヨーロッパに残留するだろうと思っていたので大きなショックとなっており、中には選択に後悔の声も聞こえてきます。いずれにしても経済を初め、難民問題、テロ問題で不安は広がっています。
                教会はこのような中に在って信仰の灯を一層輝かせ、大きな光としなければなりません。今年の最大行事、創立50周年記念集会(11月3日(木))までちょうど4か月となり、ゴールを目指して第4コーナーに入りました。より細やかな計画を立て、そして一つ一つを確実に実行しましょう。そのために全信徒の一致、一人ひとりの賜物を活用しての協力を必要としているのです。今月中には伝道会のチラシ(1万5千枚)も完成いたします。
                信仰は一つの選択であります。神のみ言葉に従うか、別の声に従うか。しかもその選択の先は未知の世界です。ある選択は神のみ言葉に従うよりも私たちにとってやさしいと思われる選択、多くの人々が選んでいる選択かもしれません。聖書は常にキリスト者が神に従う選択をするように願い、命じています。なぜなら神は私たちに真理の道(安全で目的に達する道)を示しておられ、その道を選択する者は、幸いな人(詩篇1:1)となるからです。
                しかし人間の罪、不信仰は常に様々な理由付けをして、自分たちの都合の良い道を選択して、そこで多くの苦しみ、悲しみ、そして争いに巻き込まれているのです。イスラエルの民はエジプトを脱出して荒野を旅し、いよいよ目の前の山と谷を過ぎるなら約束の地に入るというところまで来ました。そこで12人の偵察隊を派遣し、彼らの報告を待ったのです。「確かにカナンの地は素晴らしい乳と蜜の流れる地でした。しかし、そこに行くためには体格の大きな民族と闘わなければならなく、私たちは彼らに打ち勝つことはできない。」残念ながら10人の偵察隊の意見を選択した民は、そのことによって40年間、カナン入植を延期しなければなりませんでした。前進への信仰は何でしょうか。⑴神がすべての状況の中にも共におられる。⑵神にとってできないことは一つもないという信仰。⑶そして最後に、人にという信仰ではなく神に栄光を帰す信仰であります。


                2016年6月5日

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                  「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」
                        イザヤ40:31


                  創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(23) 

                        − 唯一の創造主と世界の平和 − 
                                 牧師 表 博之      

                     「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住
                      まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」
                     (使徒17:26)




                           
                   約15年ぶりに沖縄に行かせていただき、町々の様子が大きく変わっているのに驚きました。空港も一変し、観光客であふれている状況でした。高速道路が島を南北に走り、車窓からの景色も、美しい緑の木々と、白いビルが目立つ風景でした。沖縄は基地の町としてつねに話題となっています。確かに内地の多くの所では経験できないこともたくさんあり、今回も強く感じたのは、日本語が通じる外国です。教会の中でも、牧師がアメリカ人であることもかかわっていますが、アメリカ人と結婚されている沖縄の方々、フィリッピンの方々など、様々な人種の方が、共生されているところであります。140万の県民の内、約50万人がアメリカ人であり、すでに70年以上の歴史も刻まれており、単に沖縄の方々と軍人として区分、区別できません。時々、悲しい事件が発生していますが、多くの人種の方々が共生されている社会と言えましょう。歴史は繰り返されるといわれますが、社会が経済的に厳しくなるとつねに民族主義が台頭してきて、民族と民族とが争うという状況が繰り返されています。今も、ヨーロッパで、またアメリカでも、そして日本やアジアでもそのような雰囲気が起こっています。そしてそのような中にあって民族主義を強化し、強固にするのが民族宗教による一致団結ではないでしょうか。偶像崇拝は堕落した人類が心のよりどころとして、しかも自分たちの都合のよい神々を祭り上げることによって生まれ、様々な正当な理由づけが行われました。祖先崇拝はどこの民族においても一番自然に生まれた偶像崇拝で、沖縄ではオーバーな表現ですが、家よりも墓の方が大きいと言われることもありました。広島でのオバマ大統領の演説に、アメリカ独立宣言の一文が引用されていました。「すべての人は生まれながらにして平等であり、その創造主によって生命、自由、さらに幸福を追求する不可侵の権利が与えられている。」この創造主とは聖書の神であり、神は一人のお方から人類を生み出されたのです。つまり、世界は唯一の神がおられ、人類は様々な民族からなっていますが、すべて家族なのです。自分の家族だけの幸福を約束する神々ではなく、人類を幸せにして下さる唯一の神に目を向けましょう。










                  2016年5月29日

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                    「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」
                          イザヤ40:31


                    創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(22) 

                          − まことの神様ただひとり…。 − 
                                   牧師 表 博之      

                       「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)
                        「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、
                       手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」(使徒17:24)




                             
                     「まことの神様ただ一人、みなさん早く信じましょう。」と子供たちが元気よく賛美する子供賛歌があります。この歌のメッセージこそ、聖書が教える第一の教え、根本教義であります。アダムの堕落以降人類はいつの時代も、いずれの地域においても偶像崇拝の歴史を刻んでいるといってもいいでしょう。ある宗教体系であったり、哲学であったり、またある人々は無神論的となっているのですが、それぞれ自分の心の支えとなる、何らかの拠り所を持っているのです。
                    パウロはローマ書1章において、まことの神の存在を否定し感謝することをしなくなった人類が、神の代わりに、様々な神々を造りそれを神としていると論じ、最後に「それは、彼らが神の真理を偽りと取り換え、造り主の代わりに造られたものを拝み、これに仕えたからです。…」と断罪しています。
                    先進7か国の指導者が、日本の伊勢に集結し、会議が開かれました。世界の平和と経済的な繁栄を願っての会議であり、その後、アメリカの大統領が広島の平和公園を訪れました。
                    ここでも明らかなことは世界中の共通する価値観は“平和”ということではないでしょうか。一部の人や国、地域だけが豊かであるというのではなく、世界中の人々に豊かさをもたらすことを願わなければなりません。そのためには、一人一人の心の中にある貪欲をいかにコントロール出来るかでありましょう(ヤコブ4:1)。それぞれが自分の神々を祭り上げて自分たちだけの平和や豊かさを求めて、争うなら、争いは不滅となるでしょう。
                    聖書の第一の教えは、全人類には共通の神がおられ、それに基づいて、共通の道徳、価値観を持ち生きようということです。神が存在しないという人々は自分が神となっているのです。また、ある民族の神を強く主張するならばある特定の民族、地域だけの豊かさが求められ、結果的には争いが生じるのではないでしょうか。聖書の教える神は民族の神ではなく、全人類の共通の神ということです。










                    2016年5月22日

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                      「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得」
                            イザヤ40:31


                      創立50周年!「継続と飛躍への新たな力」(21) 

                            − 新たな宣教への飛躍 − 
                                     牧師 表 博之      

                         「…わたしは、だれも閉じることのできない門を、
                          あなたの前に開いておいた。…」(黙示録3:8)




                               
                       佐藤正春先生は、23年間にわたる大陸宣教を全うして帰国されました。閉ざされた門をノックして、23年間もの間、その働きが守られ、発展していることは、ただただ主の大いなる恩寵以外のなにものでもありません。また、同時に先生をはじめ、家族の犠牲的な宣教へのかかわりの故であります。大陸での宣教の難しさは、その根本において、20年前と変わりませんが、主が豊かに働いて下さり、今日では一億近い方々がキリスト者となり、さらに宣教は拡大する一方であります。
                      すでに先生の後を継承すべく新たな働きが続いていますが、先生をはじめとして、若い働き人がさらに派遣されるように、祈り支えていきましょう。先生の働きは、母教会を拠点とするのですが、様々な導きを受けておられるので、これからも大陸とのつながりは強くなることがあっても弱くなることはありません。
                      教会の使命は世界宣教であり、神の栄光を現していくことです。50年間、単立バプテスト教会でありますが、信仰、立場を同じくする諸教会との協力の中で内外の宣教に与かることができていることに感謝しましょう。そして、これからも、いよいよ益々、宣教にかかわっていく教会へと前進しなければ、教会の本来の成長とはなりません。 そのためには、私たちの教会は母教会として、さらに霊的に人数、機能そして経済的に成長しなければなりません。宣教を安定して長く続けるためには、母教会によるサポートが大切な要素となります。宣教に出かける人、祈る人、経済的に支える人、いずれも宣教を実現するために大切な要素です。その中にあっても最大の要素は祈りであります。世界宣教は主のご主権の中で進められてきたのです。
                      日本の宣教、そして大陸での宣教も主が門を開かれ、閉ざされるのです。国の指導者がどのように企てようとも、主の許しなくして、ことを行うことはできません。日本の宣教の前進のきっかけは敗戦であり、大陸では、弾圧の中でむしろ、強められ広げられているのです。










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