2018年9月30日 週報

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    「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8





    「…主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」 (使徒9:31)

    2018年度の前半が今日で終わり、これからは年度の後半を迎えることとなります。今年は「教会の飛躍」の実現、そして「新会堂の実現」を標語として励んでおります。
    創立50周年をきっかけとして、以前から祈ってまいりました「新会堂建設」への祈りも一層強く願われ、新会堂建設の特別献金、ペットボトル献金、その他の献金も続けており、ホワイト先生を通してご家族や米国のクリスチャンによる献金も捧げられ、当面の目標金額を目指して前進していますことに感謝です。
    しかしながら、この周辺で200坪以上の土地を確保し、200人以上の人々が収容できる会堂を建設するのには、さらなる建設費の必要や運営費を必要とするのも現実であります。礼拝堂の狭さ(結婚式や葬儀等)、二階への階段、トイレの数、教室や交わりの空間、さらには専用の駐車場など、誰もが新しい会堂の必要を認識くださっておられることでしょう。
    そのために、一層の「教会の飛躍」が必要とされています。初代教会は100名ほどの信者を基として、エルサレムで誕生しましたが、間もなくユダヤ当局の弾圧でエルサレムからユダヤ、ガリラヤ、サマリヤへと信徒が移動したのですが、迫害の中にあっても信者たちは恐れず、福音を証しし、そのことを祈り続けたのです。
    教勢が今の倍になれば、新会堂建設はさらに大きく前進していくことでしょう。
    第一の礼拝だけでなく、第二、祈り会(水・木)いずれも、人々で溢れるようになっていかなければなりません。ある一人のご高齢のクリスチャンが語られています。「私にとって礼拝出席が唯一出来る奉仕です。」まことに、奉仕の第一歩を語って下さいました。教勢はどのようにして、前進するのでしょうか。
    その第一歩は今いる会員が一つでも多くの集会にともに集まること、そして、祈り、賛美し、交わることを続けていくことです。日本の教会の残念な点は名簿にはたくさんの人々が記入されていても実際の礼拝には集われていない現実です。教勢はまず内側から整えていかなければなりません。

    2018年9月23日 週報

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      「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8





      「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」 (創世記3:10)

      人はどうして恐れるのでしょうか?「恐れの感情」はすべてマイナスと言うべきことではありません。身の安全を守るために「恐れの感情」も必要でありましょう。恐れない人は無謀な生活をしたり、無茶をして問題をもたらすことでしょう。しかし、過剰な「恐れ」「不安」「心配」という感情は、人々を幸いから遠ざけてしまうのです。日々の生活状況の中で、不満や不安をもたらすような考え方で受け止めると「恐れ」や「怒り」と言うマイナス感情が人々を支配してしまうでしょう。
      日本人は皇民として神である天皇によって守られていると信じていた時代がありました。しかし、太平洋戦争で初めて敗北し、天皇は神ではなかったとなり、心の支柱を失いました。この代わりに人は「自由」であるという思想が広がり、明治10年から教えられていた進化論(偶然によって生命は誕生し、長い時間の中で進化する)が益々科学的真理として信じられ、人間の能力(経済力、教育による技術力、体力etc.)に依存するようになり、心の支えとして、様々な新興宗教が必要とされますが、万物の創造主を根本とするキリスト教には関心が薄くなってしまいました。
      日本は確かに敗戦から奇跡的に経済復興を遂げました。多くの人々の不安や不満が少なくなり、しあわせな人々が多くなってきたのかもしれません。
      しかし、21世紀を迎え、今、世界は大きく変わろうとしています。中国の世界進出、南北の和解、イスラム教国、中東の混乱、と言う政治と世界情勢の激変…。今年の夏、毎日のように大雨、洪水、そして酷暑による熱中症、さらに台風と地震による災害…。どこに住んでも安全、安心出来ることが少なくなってきました。ある哲学者が語りました。「自由の刑に処せられている」。自由はそれによって大きな責任があり、「不安」「恐れ」「不満」の原因にもなるのです。
      創造主の存在を認め、その神に信頼し、その神の守りと導きと養いの中に生きる時、人は本当の自由を手にして、安心と満足を覚えるのではありませんか。死は人の自由を奪い、恐れをもたらすのですが、創造主はイエス・キリストに在る永遠のいのちを約束くださっているのです。ここに「恐れ」からの解放、救いがあるのです。

      2018年9月16日 週報

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        「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



        神は忘れることのないお方

        「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」(詩篇71:9)

        日本は現在超高齢社会と言われ、65歳以上の方が21.5%以上おられる社会となっています(2016年の総務省の発表では、65歳以上の方々は総人口に占める割合は27.7%と発表され、4人に一人は65歳以上と言うことです)。
        聖書では長寿を神の祝福として教え(出エジプト20:12、箴言3:1−2,9:11)、老人に対する敬意を示すようにと教えられています(レビ19:33)。
        誰しもが思うところでありますが、単に長寿と言うことが幸いとは申し上げられないでしょう。若い時と比べますと多くの点で、弱さを覚えることも事実として受け止めなければなりません。体力の衰え、足や腰、肩の不具合、痛みを覚えることもありましょう。さらに忘れることが多くひどくなることでしょう。私自身もしばらく会っていない方の名前を忘れ、困ることがしばしばです。メガネや財布、鍵、携帯電話をどこにおいたか忘れて、慌てることもよくあります。忘れることで悲しくなったり、困ったり、不安になったりするでしょうが、そのことをあまりにも気にして心配しすぎると、益々ストレスが増大して、健康にマイナスとなります。忘れたり、様々な弱さを覚えることは、年齢が増すにつれて避けられません。
        しかし、すばらしいことは、神様は決して忘れることのない永遠の愛で、私たちを見守っていてくださると言うことです。人は苦しい時には、必死に神を求めますが、問題が過ぎ去ると神を忘れてしまうのです。
        神は神の子たちの側にいて、いつも見守って下さっているのです。このことを忘れてはなりません。今、世界は激変の時を迎えて、将来の生活に不安を覚える人々が増えていると言われています。
        キリスト者は神がすべてのことをご存じで、すべてをご支配されておられるお方であるとの確信を強め、主を賛美する者として生かされ、守られていることを感謝しようではありませんか。

        2018年9月9日 週報

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          「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



          「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」   (詩篇90:1,2)

          先週の火曜日と木曜日、僅か二日間で人々の生活が一変致しました。今年の21番目の台風が関西を直撃し、風と雨により大きな災害となりました。人の英知のシンボルと言えるのが海上空港でありますが、強風による想定外の高潮と空港へのアクセスである橋の損傷で、空港がマヒしてしまいました。
          その問題が解決されない中で、北海道では震度7の大地震で多くの人々の家が崩壊し、尊い何十人ものいのちが犠牲となりました。50年間以上も山の麓で平和に暮らしていて、山が崩れるなど誰もが信じられないことが起こりました。
          酷暑と台風、そして地震で日本列島に住む我々は自然の脅威に振り回されているといえましょう。
          23年前の1月17日、神戸、明石に住む私たちも同じような想定外の大自然による脅威を経験し、多くのことを学ばされました。今の会堂はその時、再建させていただいたのです。悲しみ、悩み、不安、など様々な負の感情に押し潰されそうでした。こんな恐ろしい地震は50年、100年は起こらないでしょうと思われた人もいるかもしれません。
          2013年3月11日にさらに大規模な東日本大震災が起こり、熊本、そして今回の地震でした。
          只々、人は自然の脅威、あるいは運命として受け止めるしかないのでしょうか。
          聖書を信じ学んでいる私たちは、この自然を創造し、治めておられる創造主の偉大さと、人のはかなさをつねに覚える時としなければなりません。
          すでに人類歴史において、このような自然の猛威に人々はどこに住んでいても経験してきているのです。神はこのことに対して沈黙されているのでしょうか。聖書を通して脅威となる理由と、その脅威からの究極的救いとしての希望が福音として提示してくださっているのです。
          神ご自身が御子を犠牲として救いの手を差し出して下さることに気づいていただきたいのです。

          2018年9月2日 週報

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            「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



            全てはあなたから出たのです


            「家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。」(ヘブル3:4)

            明舞団地も開かれてから50年を迎えようとしており、初期の家々も築後40年〜50年が経過しようとしています。あるところでは、新しく建てなおされたり、一軒の家が2軒になったりしています。古い家を新しくしたり、一軒の家が2軒になるのは、40年〜50年と言う時間と自然環境の中で自然に進化して出来たのでしょうか…。
            進化説は初めの物質の存在を科学的に説明しているのではなく、物質の存在を信念によって定めている哲学的説明<科学的装いをしていても>にすぎません。しかも、150年以上も経過していても、一つの種から別の種へと進化したという証拠を見いだしていません。多くの説明は捏造であったり、後日の検証で、進化の証明ではないと判断されています。
            生きた化石と言われているシーラカンス、カブトガニ、カモノハシ、ゴキブリは昔からその姿は変わっていないのです。シーラカンスは魚から両生類への中間種と言われていましたが、初めから、シーラカンスは変化していないのではありませんか。進化論者は約6500万年前に絶滅した魚から両生類となる中間種で、中間種(ミッシングリンク)の存在の証拠とされ、教科書に載せられていたのです。
            今日では変異は進化ではなく、その変異も自然の淘汰ではなく、主なる要因は遺伝子にあることが分かり、進化論(ダ―ウインの主張)は否定されているのですが、信念、哲学として依然として進化が正しい歴史、科学として信じられているのです。
            特に日本は進化教育の先進国です。1877年(明治10年)6月に東京帝国大学が開校しましたが、7月に生物学の教授として、エドワードS.モースを米国から迎え、進化論教育が始まったのです。米国では進化論を教えることは禁じられ、ヨーロッパでは創造と進化を教え、生徒たちにどちらを受け入れるか、選択させていたのです。
            しかし、日本の文部省は、天皇制を強く主張、守るために、創造を排除し、進化を今日までも公教育においての唯一の世界観として教え続けられており、その点で日本はマインドコントロール下にあるといえましょう。

            2018年8月26日 週報

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              「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



              「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。」(詩篇104:24)


              最初のいのちはどのようにして誕生(存在)するようになったのでしょうか。進化論は、物質(無機物)から生命(有機物)が生まれ、さらに複雑な高等な生命へと進化したと説明するのですが、最初の物質が、どのようにして生まれたかは、明示していないし、できないのです。
              いくら、他の惑星から地球に飛んできたと証明できたとしても、では、最初の物質はどのように存在するようになったかは、未解決のままです。
              一般的には、自然発生説、偶然に物質が存在していて、自然環境の中で有機物になったと言われますが、これもいわゆる科学的証明による説明ではありません。科学者や哲学者の信念による説なのです。 キリスト者の信念は、初めに(永遠のはじめ、時間を超越した存在)、万物の創造主なる神が存在しておられて、そのお方の英知と力によって万物は設計され、造られ、エネルギーが与えられ、生命活動が始まったとするのです。
              全能者は自然ではなく、自然をも造られ。支配できるお方であられ、知恵だけでなく、意志、そして感情をお持ちのお方であられるので、特にご自身のかたちを持つものとして造られた人間とは、人格的な交わり、愛による従順を期待され、責任を与え、その責任を負わせることもおできになるのです。
              証拠を明らかにし、最初の物質の存在についても合理的な説明をしなければなりません。創造主を信じることは非合理的で、自然、偶然を信じることはより科学的なのでしょうか。
              近年、進化論者の中から、ID(インテリジント・デザイン)知的原因、知的デザインを万物の誕生の理由とする科学者も増して来ているのです。誰も素晴らしいデザインが偶然誕生したとは信じられないからです。

              2018年8月19日 週報

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                「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」(創世記1:24)


                「進化」と言う日本語は、今日、ダ―ウインの主張した「進化」と言う意味合いだけではなく「進歩」「発展」の同義語として使われており、「進化」を否定することは「進歩」「発展」を否定することと思われることもしばしばです。
                しかし、生物学上の「進化/エボリューション」が事実であるためには、「種類」を越えた変種が生じなければならず、その証拠となる化石が数多く発見されなければなりません。
                ダ―ウインは多くの外形上の変化を自然環境による淘汰によって生じたと考えたのですが、変異であってもその主な原因は遺伝子にあったのです。ダ―ウインは1859年に「主の起源」を発表しましたが、1865年に発表された「メンデルの法則」以前は遺伝子による変異の誕生についての認識はなく、しかもダ―ウインの「主の起源」のゆえに1900年になるまで遺伝学は広がってはいませんでした。
                そのために、あらゆる動植物の変異が「進化」の証明と思われたのですが、真実は変異は「進化」の証明ではなく、遺伝子の故でした。犬、猫、馬、どのような動植物であっても、それぞれの種類の中で様々な変異が生じています。毛の長い犬、短い犬、小さな馬、大きな馬、これらを小さな馬から大きな馬まで並べても、馬は馬であり、別の種類になったのではありません。
                20Cに入ると突然変異が話題となりましたが、これらも、さらに優れた種類に移り変わる証明ではなく、むしろ劣化した、即ちコピーエラーによって生じた変異であり、ほとんどが、すぐに弱ってしまうのです。
                突然変異そのものも、とても珍しいことで、頻繁には起こりません。しかも、同じ種類の中での変化です。
                今日も、様々な角度からも「種類」を越える動植物の存在は証明されていません。しかもDNAはすばらしい設計図で、偶然に存在するようになったのではありません。

                2018年8月12日 週報

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                  「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                  「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)


                  人は、全能者であられる創造主によって造られ生かされているので、全能者を造られた者が自分の理性(目で見、手で触れ、耳で聴くこと)などによって完全に理解することは出来ません。永遠の存在者を信仰によって受け入れるのです。
                  では、創造主を否定して、どのように生命の起源を説明、納得できるのでしょうか。ある人々は生命の自然発生を信じたり、同じように偶然に生存するようになった物質から命が誕生し、進化の課程を通して人類が誕生したと説明します。
                  しかし、いずれも最初の出発は、信仰、あるいは信念によって、始まっているのです。科学的にどのように研究が進んだとしても、自分の誕生を目撃すること、観察することは不可能であり、地球上の生命が、他の惑星から飛来したと説明できたとしても同じ問題は解決されていません。
                  最初の物質はどのようにして存在するようになったのか?自然はどのようにして存在するようになったのか?これは永久の謎であります。
                  創造説も、科学的と言われている様々な説も、信仰や信念によって、スタートすることについては全く同じなのです。 創造が正しければ、人間は昔から知的、道徳的、宗教的であり、中間種は発見されません。人間は自然界、他の動植物を治め、管理する立場に立ち、他の動物や植物によって支配されることはありません。男女の二性の区別が存在し、第三、第四の性は誕生しません。
                  人は創造主を認め、そのお方の言葉として聖書を受け入れるなら、その教えに従うことによる幸いを体験し、その言葉から離れるなら、様々な問題を体験することとなるのです。
                  聖書が永遠のベストセラーである事実は、聖書の原著者であられる神の存在が事実であることを明らかにしているといえるのではありませんか。

                  2018年8月5日 週報

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                    「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                    「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」 (創世記2:7)


                    「人とは、何者なのでしょうか?」と言う命題はつねに人が問うてきたものであります。フランスの画家ゴーギャンは「われわれはどこから来たのか?われわれは何者なのか?われわれはどこへ行くのか?」と題する絵を描いた後、自殺を試みました。彼は「人間とは何者であるか」の本質的問いを絵で表現しましたが、彼自身納得のいく答えを見いだせなかったようです。
                    進化論の人間観は明らかであって、生命の偶然の誕生と長い時間の経過の後に虫が高等な脳を持つ人間となったということで、その脳の働きが精神活動を生じさせていると言うことです。さらに、脳は肉体の一部であり、肉体の死はすべての人間活動の終わりとなるのです。霊的命の存在と活動はなく、死と共にすべての存在は終わるのです。人生には、特定の目的、使命などはなく、それぞれの個人によってどう生きるか、人生とは何かを決定できるとするのが進化論的人生観です。ダ―ウイン自身はそこまで考えていたかどうかわかりませんが、J.ハックスリー、ヴォルテール、ニーチェ、サルトルetc.の哲学者たちによって進化論的人間観は広がったのです。医学の進歩によって脳の研究、解明が進んで、人の精神活動の解明も進んでいます。その中で人の精神的な要素が体の状態にも大きく影響することが分かってきました。
                    では、聖書は何と教えているのでしょう。人間のいのちは、創造主によって神ご自身の「かたち/本質」に似せて創造され、初めから人間として存在していると教えています。下等な動物による進化ではなく、神のかたちを持つ尊い存在として始まったのです。創世記2章7節では、さらに詳しく、肉体は土のちり(赤い土アダマ)で形造られ、その肉体の中に「いのちの息(ニシマット)」が吹き込まれて「人は生きるもの(ネフェシュ/魂)となった。」と宣言されているのです。ここで根本的人間観が啓示されています。人は肉体のいのち(バイオス)と神の霊(息)の吹き込みによって、霊的いのち(ゾォーエー)を持つものとして存在するようになったのです。
                    この霊的いのちは永遠に存在し、人間の精神活動の源となり、人間全体のコントロールセンターとしての働きをしているのです。

                    2018年7月29日 週報

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                      「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、 わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる」ハガイ1:8



                      「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」 (詩篇8:4)


                      日本には様々な宗教があり、多くの人々は家の宗教として、ある特定の寺の檀家や神社の氏子としてかかわっており、祭りや正月、盆そして葬儀ではそれぞれの家の宗教とかかわられることでしょう。しかし、日々の実生活では、それぞれの宗教の教えを信じて、それに従う人々は多くおられないでしょう。
                      第二次大戦の敗北によって、以前から広がりつつあった無神論的ヒューマニズム(人間中心主義)の価値観を信じている人々が大半となっています。
                      この思想の一つとして、進化論があるのです。ある時代の権力者による支配からヒューマニズムによって個人個人の自由を手にすることが出来たかもしれませんが、真の意味で、人のいのちの尊厳を学び、生きているのではありません。ヒューマニズムによって今日、個人の自己中心的な生き方の暴走が生じており、自殺、無差別殺人、倫理道徳の崩壊状態となることもしばしばです。天皇を神とする神道国家主義の暴走によって300万人以上の人々が戦死し、英霊として靖国に祀られることによって良しとされていますが、聖書は「神のかたちを持つ人間」を殺してはならないと命じているのです(創世記9:6)。
                      米国ではつねに大統領選で「中絶」に対してどのような立場であるかが注視されます。聖書を権威とするキリスト者はいのちの尊厳を信じるので「中絶」に反対する指導者を選ぼうとするのです。
                      人はどんなに苦しく、つらくても自分の人生に意味があること、生きる希望と価値があると確信しているなら、自らのいのちを重んじるだけではなく、人の命をも重んじて生きようとするのです。進化を正しいとしたなら、いのちの根源は偶然を信じ、虫や猿が人の祖先であると認めなければなりません。さらには自然選択によって、環境に適応する人々だけが生き残って行くのであって、適応障害と判断されるとその人々は淘汰されて当然という理屈となるのです。このような信念は本当に人々を人間として豊かにするでしょうか。生物の世界は決して自然選択ですべてを説明できません。多くの動植物は共生し合っていることを観察するのです。

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