2019年4月14日 週報

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    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



    「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17:31)

    未来学者の一人、アルビン・トフラー(米国籍、ユダヤ人)は人類史における三つの革命に言及しています。第一は農業革命(狩猟採集社会から農耕社会)第二は産業革命(大量生産、大量消費)、そして第三番目は脱産業社会(情報化社会、IT革命)です。
    確かに人々の生活スタイルは、常に変化してきました。一つの方向からはそれを進歩前進、改善と言えるかもしれません。無神論進化論者はこのような革命による進歩を進化に置き換えて「進化」によって人類は理想世界を目指し実現できると考えてきました。様々なことで息詰まると戦争が起こり、事態を力で変え、解決を図ってきたのではないでしょうか。
    最近の様々の犯罪は、情報手段を使っての盗み、詐欺、いじめ、性的不品行等々が行われておりますが、形は変わっても人の貪欲さは今も昔も変わっていません。
    教育が普及して、経済的に豊かになっても争い、盗みはなくなりません。タイから日本の高齢者たちに電話を掛け詐欺をしていた人々が逮捕されました。
    福音(良い知らせ)の第一歩は、キリストの身代わりの死(贖罪)であります。人が罪ある者であり、誰一人自分の力で、努力で罪に打ち勝つことが出来ないことは明らかとなりました。
    聖書の神は、罪を必ず裁かれる正義のお方であられます。十字架は、すでにキリストが身代わりとなって罪の罰の代価を払ってくださったことを示すのです。さらに、復活によって十分な確かな代価が支払われたことの保証となりました。十字架の苦しみのような殉教者は数多く登場しましたが、キリスト以外、誰一人、復活されたお方はおられません。福音はキリストの復活の歴史的事実の上に成り立っている教えであり、世界に広がった理由がそこにあるのです。復活は神の裁きと復活の希望を確かなものとしたのです。

    2019年 3月31日 週報

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      「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



      「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。」 (使徒17:29)

      大関に昇進された力士が「武士道を重んじて…。」という表現を使って、口上が語られたと報じられました。
      この「武士道」こそが日本国民一般の高い道徳心を表していると考えられてきました。自分を犠牲にしてでも君主や親への徳を重んじるという精神…。学校教育も国民全体に広がっており、公衆道徳も高く、よほどの犯罪者でなければ「罪人」と言われても、自分のこととは考えられません。むしろ心の中では反発を覚えることでしょう。
      すでにお話したように、聖書の「罪(ハマルティア)」という意味は「的はずれ」、万物の創造主、主権者の意に反する生き方を罪(ハマルティア)とするのです。
      ユダヤ人は神の選民との自負がありましたので、アブラハムの子孫として生まれているだけで罪人ではなく、神の民であり、罪人ではないと考えていたのですが、「ユダヤ人もギリシャ人もすべての人は罪人である。」と聖書は語っています。
      「武士道精神」だけでなく「天皇の臣民」であるという自負に加えて、明治10年から公教育では徹底的に進化論教育が行われ、創造主を否定する思考が植え付けられてきました。
      では、今日の日本、および世界に見られる社会の状況はどうでしょうか…?親の子供に対する虐待、いじめや偏見、家庭内のDVや殺人、性的犯罪、詐欺事件の横行…。海外では、内戦、テロ、難民の増加、民族差別等々。
      人間の道徳心やヒューマニズムによって生まれるであろう理想社会とは真逆に向かっているのではないでしょうか。
      創造主を否定する人々の精神は、自分を神とする自己中心で、それはすべての争いの根源と言えましょう。自分の罪に気付かなければ、救い主の必要は分からず、求めることがありません。
      聖書の教える罪の気づきは救いへの大きな一歩です。

      2019年3月24日 週報

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        「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



        「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」 (使徒17:25)

        昔から、人は自分たちの家族や民族の繁栄を願って、様々な神々を造り、祭ってきました。ある宗教は個人、民族を越えた広がりをもつものもありますが、多くはある特定の民族の繁栄が中心ではないでしょうか。
        聖書の中で、特に旧約においてイスラエル人(ユダヤ人)を神の民として特別な扱いをしているために、イスラエルの民族宗教と誤解されることもありますが、しっかりと聖書全体を読めば、そうでないことは明らかです。聖書の最初のことばは「はじめに神が天と地を創造した。」で始まり、人間も神によって創造され、生かされているというのが明らかな教えであり、これが福音のメッセージなのです。
        人は自分たちの幸福を願って様々な神々を造って崇拝してきました。ある特定の優れた人物を死後に神格化して、その人と同じような利益に与ろうとするものであり、しっかりとした一貫した世界観、人生観は十分でなく。宗教のすべては、人間のわざによる努力、修行が救いの条件となっています。
        いくつかの宗教(例えば浄土真宗はナムアミダブツと唱えることによって)は、キリスト教の恵みの影響を受けていると言われており他力信仰と言われていますが…。
        本来、すべての人間はアダムとエバが先祖であり、(途中、セム、ハム、ヤペテから)神の子、神によって造られ活かされている存在なのです。人間の尊厳(神のかたちを持つ)も、人間の英知も神の創造の故であります。ですから、創造主との正しい関係を持つことなしに、人間は正しく自分を知ること、生きることができないのです。
        新約聖書には200回以上、「罪」という言葉が出てきます。これは、人を不道徳、社会的犯罪者という以前に、創造主との正しい関係に生きていないことを教えているのです。
        創造主が分からないと「罪」が分かりません。「罪」とは創造主を認めない、感謝しない、神と関係なく生きようとすることであります。
        いのちの源である神からはなれてはまことのいのちはありません。

        2019年3月17日 週報

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          「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



          「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」(使徒17:24)

          日本における宣教で最も大切で困難な戦いとなるのは、聖書の神を正しく教え、宣教することにあると言えましょう。日本は天皇を神として、国民はその神の臣民として歩んできた長い歴史があります。さらに日々の生活においては、様々な神々との関わりで、縁起を担ぎ、禍ではなく幸運をもたらすという宗教習慣が仏教や神道の関わりで、深く日々の生活に染みこんでいます。12支、今日の運勢、方位方向、厄年等々。また、同時に歴史科学の視点からは明治10年より公立学校で進化論が正しい唯一の世界観と教えられているのです。
          ですから、聖書の教える神、唯一の万物の創造主―を受け入れる土壌としては多くの雑草が生えているところに種を蒔くようなこととなっているのです。
          真の神、創造主が正しく教えられ、信じられないところでは、無神論的進化論を初め様々な偶像崇拝、新興宗教が盛んとなることでしょう。
          なぜなら、人は誰でも何かを信じていなければ生きることができません。
          進化論も一種の宗教であって、科学としては成立していません。初めに自然が存在していた、自然界の素晴らしい秩序の中で人は生かされていると理解して、太陽や星、山や川、海を神々とする信仰、それらの自然の中に神の霊が宿っているという信仰などが生まれていますが、これも造り主を認めず、造られたものを崇拝する偶像礼拝です。ある人々は人間自身の素晴らしい英知を信じたり、富を第一として創造主とその権威あるみことば聖書を受け入れません。
          人はどのように生きることによって真の幸いを手にすることができるのでしょうか。その第一歩は、聖書が教えている唯一の万物の創造主なる神によって生かされていることに気づかれることです。
          人の英知、いのちの尊厳と自己中心性の貪欲は、創造主の存在と正しい関係から考えなければ、満足する答えを見つけることはできません。神のかたちに似せて造られたことは、人の英知、尊厳の土台であり、いのちの源から離れた生き方こそ、自己中心性の貪欲的生き方の源です。

          2019年 3月10日 週報

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            「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



            「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。」(競灰螢鵐硲検В掘

            創造主なる神が人を造られたとき、人にこの世界を神の意志を正しく反映し治めるようにと命じられました。また、その時、人や動物がこの地上での生命を保つためにと植物、木の実を備えてくださったのです。
            神はこの世界の創造主であり、真の所有者であられます。
            人は、クリスチャンであるか否かに関わらず、神の豊かな富の管理者にすぎず、所有者ではありません。
            しかし、人は神に背を向けて以降、自分の知恵と才能によって富を管理し、自分の欲望を遂げようとしてきました。
            富は一つの偶像(マモン)となってしまい、多くの人々は富にかかわることで争いを起こしたり、思い煩いをいだくようになり、富によって真の平安、幸いを得ることができなくなってしまいました。
            今日の争いの多くの切っ掛けは富の奪い合いではないでしょうか。
            キリスト者にとって真の神はキリストであり、キリストの御教えの中に豊かな幸いな人生が約束されていることを強く信じ、歩んでいかなければなりません。霊的な豊かさも物質的豊かさも神からの祝福として神の子たちに与えられるのです。ザアカイはお金持ちになりましたが、霊的に死んでいたので、幸いを手にすることがありませんでした。やもめの献金は一番少額でしたが(レプタ銅貨2枚)、イエスは一番多く献げたと称されました。やもめは生活費すべてを献げたのでした。ソロモンはその時代の人々の中で一番の富める者となりました。それは、彼が神の御心にかない、長寿と富を与えてくださいました。同時にソロモンは富のはかなさ、空しさも体験し、若者たちに「あなたの若い日に創造主を覚えよ」と訴えて、神に信頼して生きることを、富に信頼するよりも大切であると語りました。富を正しく管理し、活用することは一人一人の信仰の成熟の証しと言えましょう。

            2019年 3月3日 週報

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              「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



              「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。…」 (汽謄汽蹈縫隠粥В隠供檻隠掘

              今日、3月3日は故塩郷奈緒子姉が19歳の若さで天に召されてから31年と1か月となる日です。私が牧師として最初に召天式を司式した教会員です。
              故塩郷永治兄(2017年9月16日召天85歳6か月)は、次女奈緒子姉の召天という悲しみと大きな試練の中で、求道され、召されてから数週間後の2月28日に信仰告白へと導かれました。奈緒子姉の召されたことは教会全体にとっても辛い試練の時でした。
              20歳を目の前にして、幼児教育を志して励んでおられた姉妹がどうして、こんなに若く、早くして召されるのか…。
              信仰告白された兄弟の願いは「…天国で奈緒子と再会すること、その時に恥ずかしくないように信仰生活をしないと…。」と言うことでした。今、天の御国で御二人は再会され、幸いな時間を過ごしておられることでしょう。
              キリスト者には幸いな確かな希望があるのです。それは、復活され、昇天されたイエス様のおられる天国に死ぬとすぐに引き上げられるのです。そこで体の復活を待ちながら魂は憩い生きているのです。
              キリスト者は日々の生活の生き方の中で永遠というものさしを忘れてはなりません。この世のことだけを考えると、生き方を誤り、心の平安を失ってしまうのです。多くの思い煩いは、この地上のことしか考えない心の中で生じることではないでしょうか。
              今月21日、故塩郷永治兄の納骨式が行われます。塩郷姉を初め残されているご家族の皆様に主の慰めと平安が与えられますようにお祈りください。私たちはこの地上において旅人です。私たちの国籍は天にあります。

              2019年 2月24日 週報

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                「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                「…舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。…」  (汽灰螢鵐硲隠粥В后

                教会の誕生の時、新しい時代の幕明けとしての出来事、しるしが登場しました(使徒2:1−2)。それは御聖霊の降臨でありました。この時からすべての信者のうちに御聖霊は内住し、世界に向かっての福音宣教がキリストの弟子たちを中心に始まったのです。そして、各地域に教会が誕生することとなりました。本来、視覚的にとらえることのできない聖霊の存在が炎の現われで確認され、外国語の訓練のない人々が突然外国語を話すという奇蹟が起こり、当時の世界各地からエルサレムに来た人々とコミュニケーションができたのです。このことを異言(ヘテロ グローサ)と呼んだのです。後に聖霊を強調する人々は特別な聖霊体験による神との神秘的交流手段としての異言を強論しようとしましたが、正しい聖書解釈によるものではありませんので、そのような体験はすたれてしまいました。
                ここで教えられていることは、ことばの共通性がコミュニケーションと理解の上で大切であるということです。宣教師とは、母教会から出かけ、海外で福音を伝えるために召された人々で、常に言葉の課題が優先的に存在しています。
                宣教師ご家族の語学の学びのためにお祈り、ご協力ください。
                明治期に日本の本格的宣教が開始されました。主にイギリス、アメリカからの宣教師でした。当時、日本はキリシタン禁令が出たままでした(明治7年廃止)。宣教師たちは住居も制限され、公に布教できませんでしたが、洋学塾の教師として、将来を担う若者たちに触れ、洋学とともにバイブルを教えたのです。若者は英語を学び、バイブルや西洋の知識を手にすることとなりました。明治時代に多くの指導者がこのような中で育ったのです。大隈重信、福沢諭吉、勝海舟、坂本龍馬、伊藤博文、新島襄、岩崎弥太郎、五代友厚、森有礼等々。すべてがキリスト教徒となったわけではありませんし、自由主義キリスト教の影響もありましたので、日本の宣教の土着化は軟弱でした。今日、グローバルな世界、IT革命の中で英語が世界共通言語となったのです。そのために、日常の生活で英語を話すという才能が普通に求められているのです。小学校の教科書の中で、中高大の受験、仕事、商店での接客で会話の能力が求められます。
                教会では、このようなニーズにこたえる英会話教育を一つの伝道手段としようとしています。ご祈援ください。

                2019年 2月17日 週報

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                  「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                  「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。」  (汽灰螢鵐硲后В機

                  今から51年前の8月に私たちの教会は、今ある場所に土地を購入し、会堂を建設いたしました。教会がスタートして1年と10カ月ほどの時でした。教会の会員は日本人だけで10名程でした。会員の皆様もそれぞれ献金をささげたのですが、大半はアメリカの一人のクリスチャンの献金と宣教師を支援くださっている諸教会の献金によるものでした。もちろん、そのすべては、すべての所有者であられる神様によるものですが、多くの米国人キリスト者たちが自らの収入の中から喜んで捧げて下さったので、土地の購入と会堂建設が実現しました。その所に今日の会堂が1996年5月献堂され今日まで、この会堂を用いて宣教活動が続けられていることに感謝いたします。
                  教会がこの世界に在って活動し続けるために、経済的な必要についても祈り備えていかなければなりません。神様の教会会計のご計画は、信徒たちの自発的、喜んで、感謝をもって捧げる献金で運営していくことです。献金は寄付や会費などではありません。礼拝の一つの現われであり、神がすべての必要を与え満たしてくださっていることへの感謝の表明であります。神から離れ、いのちを失っていた私たちは、キリストの十字架のお恵みによって罪赦され、神と結ばれ永遠の命の望みに与りました。
                  ですから、自らの生き方を通して神の御心を行い、栄光を表す人生を過ごす者とされたのです。今までの中心はすべて自分の欲の満足ためでした。しかし、今や私たちのいのち、才能、時間、持ち物を用いて神様に喜ばれる生活をしたくなるのです。そのような人生は本当の喜び、幸い、意義を実感し、人々と平和を生み出すことでしょう。
                  教会会計の基本は会員一人一人が収入の什分の一を喜んでささげる献金を基にして成り立ち運営されるのです。収入の多い、少ないではなく、一人一人が応分の協力によって教会会計は祝福されるのです。2019年度の予算の祝福のためにともにお祈りください。

                  「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

                  2019年 2月3日 週報

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                    「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                    「神様の祝福の原理(8)」―主に信頼する者―

                    「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

                    日本では養子縁組が少なく、沢山の身寄りのない子供たちが施設で暮らしていると言われています。生んだ親に養育してもらえない…。虐待されて傷つけられたり、いのちを奪われるという悲劇が起こっており、このような出来事を見聞きすることは本当に悲しいことです。
                    日本人は血縁を重んじるので、なかなか養子を迎える人が少ないと言われていますが、それだけではなく、法の壁もあり、特別養子縁組は6歳未満に決めなければならないという高い壁もあるようです。
                    新しい年を迎えて、自然環境、社会環境は益々厳しくなり、心の不安、生活に不安を覚える人々が増加して来ているのではないでしょうか。「力の強い者を支配する」原理はアダムの堕落以降、今日まで全く変わることがありません。ですから、力ある者との闘争は常に続き、平和も実現せず、つねに弱い者の苦しみも存在し続けているのではないでしょうか。そのような世の中にある人々に神は、神の祝福の原理の中で幸いに生きる道を示して、その道を歩むようにと語られているのです。
                    人は誰であっても、キリストに在って「神の子」とされる特権に与れるのです。正に、キリストに在って神の家族の養子(ホ フィオス トゥー セオー)とされました。キリスト者は、キリスト(神の独り子)と共同相続人とされているのです。神と子との関係を回復し、神の特別な愛の対象となり、神の守りと養い、そして、神の息子としての特別な役割が一人一人のキリスト者に与えられています。この素晴らしい真理に気づかず、ただ自己中心的な生き方で、より強い者となり、弱い者を支配する生き方を追求しようとしてはいないでしょうか。そこでは争いや満たされない思い、そして不安は尽きることがありません。
                    神の子とされていることの素晴らしさを知り、確信しようではありませんか。神との対話をより親しく、多くの時間を持ち、どのような試練の中にあっても、すべてのことを益としてくださる神を信頼し、すべてのことをゆだねる者となりましょう。「ゆだねる(エピリプトー/投げ出す)
                    「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(汽撻謄蹌機В掘

                    2019年 1月27日 週報

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                      「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」へブル11:6



                      「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(汽謄皀藤粥В隠粥

                      「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」 (競謄皀藤押В押


                      久しぶりに教会で按手礼式が行われようとしています。苫小牧で伝道されている小崎先生が神学校を卒業して按手を受けられて以来です。吉田悟志先生は2年前に沖縄信仰バプテスト教会で受けられました。
                      新しい教会が誕生し、福音宣教が拡大していくためには、歴史ある教会が継続発展していかなければなりません。残念ながら、米国においても我が国においても閉鎖されてしまう教会も少なくはありません。
                      その第一の理由は、牧会者の継承が途絶えるからです。中には信徒たちで集まり、礼拝と宣教を続けている教会もありますが、いずれ若い世代が継承しなければ教会は存続できなくなるのです。
                      いま、日本に根本主義のバプテスト信仰に立つ新しい宣教師たちが増し加えられています。さらに、日本人の伝道者も神学校で訓練を受け、按手を受けようとしています。教会は信者の集まりであり、教会の成長とは、その信者一人ひとりの信仰の成長であり、成長の基準は単なる人数、建物、経済力ではなく聖書に忠実であるかどうかであります。パウロは次の働き人の継承の資格として「私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人」とするようにと勧めています。
                      馬渡師、義宣師、それぞれしっかりと聖書信仰の神学校で訓練を受けてこられました。私たちの教会にはこのように、教会のリーダーとして主に仕えていこうとの信徒が起こされていることは何と幸いであり、将来に希望があることでしょうか。教会の第一の責任はこのように信仰によって、献身した伝道者たちが、福音の働きで生活ができるように祈り、支えていくことです(汽謄皀藤:17−18、汽灰螢鵐硲后В隠魁檻隠粥法
                      海外で働く宣教師のためにはより多くのサポートを必要とするために、同じ信仰、立場の教会が自発的に協力し合い、宣教協会を設立して、宣教師をサポートしているのです。教会の成長、宣教の拡大のために、さらに伝道献身者が起こされるとともに、彼らがフルタイムで福音の働きに与れるようにサポート体制を十分に整えなければなりません。

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